泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[障害者支援]「迷惑」考

 ある者のふるまいが周囲の者に迷惑をかけてしまい、周囲の者が「迷惑だ」と言えば、それはきっと「問題」とされる。そのふるまいが意図的に迷惑をかけようとするものであっても、全く意図しないものであったとしても、周囲にとってみれば「問題」だとされる。周囲というのは個人かもしれないし、集団かもしれない。特定の個人にとっての問題でしかなくても、それに自らの立場を置き換えて共感する者が多くいれば、それは社会的な問題とされるかもしれない。
 意図的に迷惑をかけようとする行為は非難される。意図的でなければ、どうか。意図的でなくても「常識が無い」とか「無神経だ」という非難はなされることがある。同じ状況において別様にもふるまえるはずだと周囲から判断されれば、「改善」するように求められる。
 そこで別様にもふるまえるはずだと周囲は期待するが、当の本人にとってはそれが難しい場合はどうすればいいか。そんな「期待」のほうが誤っている、と当の本人や他の誰かが主張することはできる。しかし、「期待できないのだ」と理解しても「迷惑だ」と感じないわけではない。「難しいということはよくわかった。それでも自分には迷惑なのだ」と言われる。「難しい」ということがはっきりすることで、むしろ「改善」される見通しがなくなることで、非難は排除へと変わるかもしれない。「迷惑だから何とかしろ」ではなく「ここから出て行け」と。
 同じ環境のもとで、ある者にのみ許され、ある者には許されない行為があるというのは「問題」とされる。「迷惑」はそのヴァリエーションのひとつである。そこでは両者の軋轢を回避する方法を考えなければならない。例えば、許される者に何らかの条件づけをすること。そのような条件が人々に共有されれば、それを満たしていると主張することで、周囲に納得してもらえるかもしれない。ある者は「別のようにもできる」が、ある者は「このようにしかできない」と理解されるのはきっと重要なことだ。両者に条件の違いが認めにくければ、対応の差は恣意的にしか見えないだろう。また、その条件そのものが固定的なものではなく変化させられうるのでないか、と人々に思われてしまっても、この方法は使えなくなる。「今は難しくても、努力しだいで変わるのではないか」。実際に「変わらない」かどうかは、断定できないこともあるし、断定しないほうがいいこともあるはずだが、「変わらない」と言っておかないと損をするかもしれない。
 ところが、そのような条件づけをたとえ確立しえたとしても、前述したような「迷惑」という問題にはあまり役立たないように思える。「迷惑」というのは、いかなる条件づけさえも認めようとしない主観でありうる。もちろん「誰しもが周囲に迷惑をかけるときがあるのだから」と言えば、納得される種類の迷惑もあるだろう。誰もが子どもだったではないか。誰もが老いるではないか、と。それでも現実として許されることには限りがあるように思える。
 少々の迷惑はかまわないではないか、と考えたらどうか。寛容さが大切なのだと。しかし、すでに迷惑と感じている者にとっては、不満である。「私にとっては少々でない」と言われてしまえば、反論できるものでもない。寛容さを説くタイミングも問われるだろうが、問題が既に生じた後には不向きである。
 そんなわけで「迷惑だ」とか「イヤだ」とかいう一見して単純なクレームこそが、最も実践的には厄介に思えるのだが、どうか。そして、そんなクレームが地域にはたくさん転がっている。