泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

運動と対話

 英語に疲れたので。

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)

 第一章「『人間は自由だ』という虚構」。アーレントの思想についての簡明な解説。

「差異のポリティクス」は、ひとりよがりの近代「ヒューマニズム」の影響力を相対化するうえでは重要な役割を果たしている。しかしそれらの思想的な水準は、はっきり言って、玉石混淆だと思う――当然、「石」の方が多い。
 ダメな差異のポリティクスというのは、「普遍的な人間性」を取り下げる代わりに、例えば「女性」としてのアイデンティティーとか「沖縄人」としてのアイデンティティーを一義的に限定して、それぞれの集団の団結を図ろうとするものである。「(すべての)女性は家から出て働くことを求めている」とか「(すべての)アラブ人民は反米主義者である」といったたぐいの単純化した「本質」規定は、マルクス主義の「階級」概念と大差ない。そうした本質規定を掲げて社会革命を実現しようとする運動体の中には、規定を受け入れず逸脱しようとする”仲間”に対して不寛容になるものが少なくない。
 さらに言えば、そうした「集団」に属するメンバー相互の「共感」や、その集団に対する「同情」を社会運動の原動力にすれば、必然的に、運動体の内部、あるいは他の目標を掲げる運動体との「対話」を拒絶する閉鎖的な「同情の政治」に陥る危険性が強くなる。当然のことだが、可哀相な「同胞」に「同情」することと、その”同胞”と「他者」として「対話」することは、全く次元が異なる。(中略)
 このように、西欧中心主義的「人間」観と、それに対抗しようとする差異のポリティクスの双方が、画一的な同情の政治に走って「対話」の可能性を実質的に閉ざしてしまう傾向を内在させている。アーレントは、60年代に既に、そうした近代/反近代の二項対立的なジレンマを見抜いていたのではないかと思う。(65〜67ページ)

 さて、障害者運動はどうだろうか。「同情」でも「対話」でもなく、一部では団体間での「誹謗中傷」が巻き起こっているとまで言われている。その実情はよく知らない。しかし、少なくとも「障害者」の一義的なアイデンティティなんて、運動内部では信じられていないように思う。一方で、それゆえに運動の外部からすれば「わかりにくい」のだろうな、とも思う。
 自立支援法は、厚生労働委員会での議論が改めてはじまったが、「1割負担」に焦点化されがちだった夏の国会と比べると、はじめから細かな論点にまで議論が及んでいるようにも思える。政治がこの「わかりにくい」世界を理解しはじめたのか、1割負担はもはやどうにもならないと細部の修正に目標をシフトさせただけなのか。運動団体と議員の間でどんな対話がされてきたのかもわからないが、いずれにせよ、いったん廃案になったことはおそらく無駄ではなかった。