泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか

アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか

 第7章(「語る/聴く主体はいかにして成立するか」)。
 途中から振り落とされた。
 主体が制度に同一化されていく側面から抜け出すために「主体化の失敗」を契機にしようとして、アイデンティフィケーション論の重要性を主張、というのは大筋としてわかるのだが、出てくる論点が多岐に渡るため、頭の中が整理できない。何回か読まなければ、自分には消化しきれない。
 少し考えたらよさそうなことについて、備忘メモ。

 (アルチュセールのいう)呼びかけられ形成される主体、という考え方には、問題点もある。第一に、この議論は、主体として呼びかけられている行為体(エージェント)が前提となっている。しかし、主体として呼びかけられない人々、内面をもち自らの意思で従うことすら要求されない人々が存在する。(226ページ)

 「自由意志」で自らに不利な制度を支持し支配者に同一化していることと、他者によるアイデンティティの全面的規定とは異なる問題である。アルチュセールが扱っているのは前者の問題である。もちろん、主体は完全な形では存在しない観念にすぎない。実際には、自由意志は権力作用と相関して機能している。上司に対して部下は自由意志で従っているわけではない。しかし、それが生活上のやむをえない選択にせよ、部下は上司に権力を与える組織という制度に、自由意志で加入していることになっている。組織をやめる自由、および組織のあり方に対して意義を申し立てる自由は、制度上は保証されている。しかし、人権が保証される「人間」の中に含まれていない人々、たとえば、外国人や軍政下の民衆は、そうではない。この違いは明確に意識されなければならない。(227〜228ページ)

 第三に、呼びかけというモデルは、名指されたものの主体のみを問題とし、名指す側を問わないという難点がある。アルチュセールにおいては、」名指す側は一種の神であり、イデオロギーであったからそれでよいのだが、このモデルをマイノリティや差別の問題に適用しようとすると、やはり、名指す側の主体の構成をも視野に入れたモデルでなければならない。(229ページ)

「語る―聴く」という行為は、三つの位相に分けることができる。(中略)発話のレベルで語ることができないという現象(狭義の沈黙)、「語る―聞く」という相互作用が成立しないという減少(無視)、聞く側が異なった聞き方をしているという現象(誤解)である。話せない、話しても聞いてくれない、聞いてもわかってもらえない、の三つは、分けて考えた方がいい。(232〜233ページ)

 期待していた物語論批判は、

 浅野の物語論の要点は、ミードが創発性の源泉とした主我と客我の相互作用が、個人の内側の内省であったのに対して、そこに他者の存在を加えた点である。この他者は自己を変容させるよう積極的に働きかけるわけではない。自己は、語りという形でその内省を外部化する。カウンセラーという名の他者は、その語りの外部化の契機として、また外部化された内省の承認として関与し、最終的に、それが外部化しなくても可能であった個人的内省であるかのようにふるまうのである。
 このような物語論はカウンセリングの新しい潮流を取り入れており、非常に興味深い。確かに自我の変容に関してミードが抱えた論理的な問題は越えられるかもしれない。しかし、ほんとうに自己の変容の契機を理論化したことになるのかどうかという点では、疑問が残る。
 第一に、物語論は、自己物語が変わる初発の契機となる物語の裂け目や非一貫性がどこからくるのかを説明していない。しかし、こうした裂け目や非一貫性が自我に生じるということ自体が、社会的な規定に全面的に屈しないという点で、最も重要なのではないのか。第二に、自己物語が変われば、確かに自己イメージは変化するが、それによって他者との関係はほんとうに変わるのだろうか。
(中略)セラピストは語り手が目ざす自己イメージを察知しそれを受容する。しかし、他の、通常の状況における他者たちがそのような新しい自己物語や自己イメージを受容するという保障はない。
 また、浅野は、語られないものの重要性も指摘しているが、物語論の中で、語ることができないという事態、すなわち権力作用をどのように把握できるのかが不明である。語りが成立するのは、実は、そこですでになんらかの社会的諸条件が克服されているからであって、さまざまな条件によって語ることができない、あるいは語りを抑圧されている人々は多く存在する。
 (中略)また、物語論が前提としているようにみえる自我のモデルにも疑問がある。物語論的自己は、自己の一貫性を仮定している。(中略)物語が一貫していなければ、それは裂け目となって、一貫した物語となるよう変更を促すのだ。しかし、自己は一貫しているのが当然、あるいは望ましいものなのだろうか。一貫した自己を目ざさなければいけないのだろうか。また、自己は物語なのだろうか。語りきれない自己や、そもそも語ることのできない自己のレベルがあるのではないか。自己は言説のみで構成されるものなのだろうか。(197〜199ページ)