泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

現場の声

 昨日のことになるが、大学の学内学会より原稿依頼。2800字前後。学内学会誌に現場からの声を寄せてほしいという。よく趣旨がわからないので少し突っ込んでみたが、編集部もあまり具体的なイメージを持っているわけじゃないらしい。過去の号も読み返したが、人によって書き方がまちまちで、やっぱりよくわからない。
 〈現場の声〉というとき、大学などの教育機関では聞けない声があるということがどうやら前提にされている。それはいったい何か。事例のことか。それならば事例研究というものがある。仕事の大変さか。それを学会誌に載せたところで、学会員の役に立つだろうか。「役に立つ」をどう好意的に解釈しても、〈研究〉には大して役立ちそうにない。学会員には「現場」の人々もたくさんいるが、他の現場の愚痴などあまり聞きたくもなかろう。どこも大変なのはみんなわかっている。
 〈現場の声〉が組織化されて〈研究〉となるのか。だとすれば〈研究〉は〈現場の声〉より洗練されているということになるが、それならば一定の研究成果のあがっている領野で〈現場の声〉に耳を傾ける必要はなくなる。組織化の過程でこぼれおちるものを大切にしたいと考えたら、どうか。〈現場の声〉はそのまま手を加えられることなく表されるかもしれない。では、そのような〈現場の声〉は何の「役に立つ」のだろう。つきつめると、次第にわからなくなる。
 こうした泥沼から抜け出すには、「役に立つ」とはどういうことかをまず整理しなければならない。誰にとっての、いかなる機能か。こうした議論はわずかしか見たことがない。社会福祉研究となると、ほとんど見たことがない。ときに現場は「学者先生は何もわかっていない」と言い、それを自らのアイデンティティにする。しかし、現場として自分たちの「役に立つ」ものは何かを、どれだけわかっているだろうか。また、研究が「役に立つ」ものを生み出すために、自分たちは何をすべきか考えてきただろうか。
 なんだか全然まとまっていないが、眠い。もう寝る。