泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

わかりやすさの陥穽

 グランドデザインと自立支援法について、養護学校生の保護者向けに話してきた。
 うんとわかりやすく話したつもりだった。費用負担のシミュレーションもしてみせたし、論点整理もした。与えられた時間はもともと40分しかなかったので、ごちゃごちゃした話はしている時間もない。
 どうも評価はわかれたようだ。「わかりやすかった」。「難しかった」。どうも建前と本音ということでもなさそうな気がする。たぶんわかる人にはわかるし、わからない人にはわからない話だったのだろう。聞き手は小学部1年生の保護者から、高等部3年生の保護者まで。支援費を全く使っていない人もいる。ゆえに前提とされている知識の差は大きい。予備知識がなくてもわかるように初歩の初歩から話したつもりだけれど、そんな努力も一部には無駄であったかもしれない。
 「お金の支払い」について話すのに〈応能負担/応益負担〉という区別は極めて便利だ。「サービス体系」について話すなら、〈施設/居宅〉という区別もかかせない。しかし、サービス利用者にとって、これらの制度的な区別は自明でない。こうした区別を用いることで、制度の理解や円滑なコミュニケーションが進むという意識を皆が持っているわけでもない。多くの人にとっての「わかりやすさ」というのは、下手をすると、物事がすべて自分の手持ちの枠組みの中で整理されることなのだ。そのような話ができる人は、「わかりやすい話をする人」として評価してもらえるだろう。けれども、本当にそれだけでよいのだろうか。何かひっかかるが、いまひとつうまく表現できない。いろいろ書いたけれど、結局消してしまった。