泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

サービス存続の功罪

 某法人の偉い人と少し話す。居宅サービスについて「こんなに単価が落ちて、これからも落ち続けることが見えているのに、事業者がつぶれたとか、撤退したとかいう話をあまり聞かないのはどうしてだろう?」という疑問を口にしてみる。たどり着いた結論は「みんな無理な働き方をしたり、給与をさげたりして、乗り切っているのではないか」。当たり前といえば、当たり前。たぶん、そうなのだろう。
 福祉サービスは一度できて、利用がすでに始まってしまえば、つぶせない。このことは、福祉サービスに市場原理がとてもなじみにくいことをいうときの根拠にもされる。代替するサービスが別にあるならば、つぶれても「他を使えばいい」と言う事もできる(実際はそれさえも簡単なはずがない)。しかし、ガイドヘルパーがあちこちの事業者から選べるなんて話はこの界隈では聞いたことがないし、事業者の不足はこれまでの支援費関連調査からも明らかである。この状況でつぶしたら、利用者の生活が壊れてしまう。
 一方で、つぶれないで存続していると「できるじゃん」と思われかねないのも事実である。このまま事業者が無理をしてなんとか運営を継続させてしまえば、国としては「どうぞそのままお続けください」だろう。「知的障害者の地域生活支援をやる事業者の職員給与は手取り15万円を切るのが自然なこと」で、世の中全体が合意していくのかもしれない。たとえば学童保育所の指導員なども労働条件は過酷で、給与12万円とかいう話をしばしば聞くが、それと同じような状況になっていくのかもしれない。
 単価の動きや制度改革の動向についての情報は、まだまだ十分には利用者に知られていない。現時点で今後のサービス存続に対する危機意識が強いのは、利用者よりも事業者だろう。多くの利用者は使ってきたサービスが急に完全になくなることなんて、想定していないように見える。なんらかの形できっと残るだろうと楽観的にいる。事業者は金の話ばかりすると利用者から嫌がられるから、どんどん追い込まれながらも、何事もないかのようにサービス提供を続けていくだろう。果たしてそれで本当によいのか。
 不謹慎な仮定だけれど、逆に続々とつぶれていったらどうなのだろうか。きっと利用者側からのまた違った運動展開があるに違いない。つぶすのは極端としても、これからの支援を職員の善意や自己犠牲の精神に依拠させないためには、今のままの運動がよいとも思えない。「サービス」というのが「提供者/消費者」の非対称的な関係に基づくものなのだとしたら、障害者の介助はいったん「サービス」であることから後退して、事業者と利用者の連帯を深めることから再出発したほうがよいのかもしれない。それは、とても悲しいことだけれど。