泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

知らぬ間に「ソーシャルワーク」の定義が変わっていた

ソーシャルワークの国際定義が知らないうちに変わっていた。大学を離れ、専門職団体に属さず、学会誌にもちゃんと目を通さないと、こうなる。
・少し詳しく調べようとして、ネットを漁ってみるが、反応しているのは「専門職団体」と社会福祉士の国家試験対策がらみのサイトだけである。この国における「ソーシャルワーク」の現状をそのまま表しているようで、なんだか切ない。
ソーシャルワークのグローバル定義」新しい定義案を考える10のポイント
http://www.japsw.or.jp/international/ifsw/SW_teigi_kaitei.pdf#search='%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF

ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である。

・正直言って「専門職であって学問である」というのは、もうかなり論理的に破綻していると思うのだけれど。訳が悪いのか。
・たぶん実践と研究を同等に並べて言いたい人たちがいるのだろう。ソーシャルワークがあって、ソーシャルワークのための研究がある、では誰かが困るのだ。誰かが。

社会正義、人権、集団的責任、および多様性尊重の諸原理は、ソーシャルワークの中核をなす。

・「集団的責任」とは、ずいぶん踏み込んだな。
・それにしても、「集団的責任」志向のソーシャルワークって、いまどこにあるのだろうか。進みゆく「専門職化」が「集団的責任」をシステマチックに解体しているようにしか見えない。だとしたら、これはマッチポンプだ。
・最近、実践の中でもこういう構図をよく見る。自分で壊しておいて、直しながら胸を張る。歴史的な議論から一歩も出られていないとも言えるか。いや、近代社会のマッチポンプではなく、ソーシャルワークそのもののマッチポンプであるとしたら、もっとタチが悪いのかもしれない。

ソーシャルワークの理論、社会科学、人文学および地域・民族固有の知を基盤として、ソーシャルワークは、生活課題に取り組みウェルビーイングを高めるよう、人々やさまざまな構造に働きかける。

・「人と環境の相互作用に」って本文中では言わなくなったらしい。個人的には、あまり気にならない。
・でも「行動と社会システムに関する理論」とか言うあたりは好きだったな。本当にその両輪で支援を展開できていたら、ずいぶんソーシャルワークも変わっていただろう。「人々やさまざまな構造」はいっそう抽象的だ。
・この抽象度の中でひとつひとつの言葉に込められた意味を、実践と関連づけて理解できるワーカーがどのくらいいるだろう。たぶん「人文学って、何ですか?」からのスタート。
・世界中を相手にすると「エビデンス」とか言うことにも躊躇されるのだろうか。「地域固有の知」っていうのはどの水準まで含むのだろう。学問としての対象論にとどまらず方法論まで? だとしたら、もはや何でもありだよね。
・この定義変更を受けて、学会誌の査読方針が変わったりして。

この定義は、各国および世界の各地域で展開してもよい。

・日本では、もういっそ中学生にもわかるぐらいの言葉で書き直して、世間に具体的な仕事のイメージをもってもらうようにしたほうがよいのではなかろうか。
・自分がソーシャルワーカーなのか何なのかもよくわからないけれど、とにかく支援しながら必要とされることを誠実に学び続け、変化を生み出そうとするだけ。
・「社会を変えたい」って言う人ほど、ソーシャルワーカーを自称していない気がするのは気のせいだろうか。定義とは反対にどんどん小さくなっていく日本的ソーシャルワーク。良くも悪くも「職業」だ。

「適応」を目標にしてはならない

 ケース会議の論点が見えない状況にもやもやしながら、なぜこうなってしまっているのかと考える。
 報告をまとめようと書き始めて気づく。やはり文章は自分をごまかせない。
 問題点をみんながオブラートに包んで述べる。それがのらりくらりとかわされる。今はもううまくいっているのだと。トラブルは起きていないと。
 実際にトラブルが起きていないかどうかはわからない。直接その場にいられるわけでもない。本当なのか嘘をついていないかと問いただすわけにもいかない。みんな何も言えなくなる。
 環境を何も変えてはいないのだそうな。だとしたら、我慢するようになったのかもしれない。あるいは「あきらめた」のかもしれない。どんなに荒れても結果が変わらないという悲しい学び。
 「我慢している」ことの証明はいかに可能か。我慢できなくなったときに、はじめてわかる「これまでずっと我慢していた」こと。支援は後手後手にまわる。対応が遅れるうちに、あきらめてしまうこともありうる。
 すると傍目には「適応」できているように見える。とにかく「その場にいられている」のだから問題ない、とされる。周囲が一番困るのは「その場にいられない」ことだから。学校に通えない。作業所に通えない。
 「その場にいられる」というだけの適応。その程度のことを目標にできるはずがないのに、問題化のきっかけが「その場にいられない」だからこそ、目標を誤る。支援計画はどこにいった。
 会議中に気づけば、もう少し展開は変わったのかもしれない……。

「個別化した支援」への誤解

 「マニュアル化した支援ではダメだ」という人が、体系化された支援の方法論をそのまま放棄してしまうことがある。典型的にはTEACCHの「構造化」嫌いの人たち。
 「個別化」が大事だ、と言うのはみんな否定しない。問題は、「個別化」が「マニュアル化」の対義語みたいに理解されてしまうこと。ただマニュアルを投げ捨てるだけの支援ならば、誰でもできる。何も新たに学ぶ必要がない。
 「個別化」とは「その人を固有の存在として知ること」にとどまらず、個人の中での差異化を進めること、すなわち「その人に対する思い込みを排除すること」である。支援の文脈だと「Aができるから、Bもできる」「Aが好きなら、Bも好き」という勝手な関連づけを正しく切断することだ。
 この切断は難しい。相手が異を唱えてくれればよいが、唱えてくれないことも多い。同じ支援ばかりずっと繰り返しても、そこに差異は見いだせない。支援の失敗は考え直す契機になるが、何を失敗とみなすか。その基準が自分の中にあるなら、ずっと失敗しないでいることもできる。
 差異化を踏まえた支援に成功してはじめて「あれは誤った思い込みだった」と振り返れることもある。ただ、体系化された支援方法をマニュアル的に導入するだけで、それは難しい。自閉症支援の底上げにこれから重要なのは、この点の反省ではないか。
 結局、「『発達』の十分なアセスメントなしに、正しく使える支援方法なんてない」という当たり前の話に尽きるのだが、福祉現場のアセスメントはもっと「個人の中での差異化」に自覚的であったほうがよい、と思う。

夏休み1週目

 テレビやDVDくらいしか楽しめるものがない子どもの余暇を組み立てるのは大変だけれど、それさえも楽しめないのはもっと難しい。
 「感覚」的な刺激を楽しむ子どもは多いけれど、そこに長く没頭できる子どもばかりでもない。自立課題だって、そんなに長くは続かない。間が持たずに、様々な行動が出てくる。そんなこんなで、3日でおよそ5万歩の支援…。
 支援後には事務のための気力体力が残っておらず、結局休日を返上するしかない。そんな月曜日。

チョコミントの練習問題

 ずっとその店に行くことはなくなっていた。彼がお気に入りだったチョコミントアイスの販売が終わってしまったからだ。彼は重い知的障害を伴う自閉症児である。
 店のおばちゃんやおねえさんはすっかり顔なじみだった。ただ、どの商品を売るのかについての権限を持ってはいないだろうから、売れない商品がなくなるのは仕方ない。彼以外にチョコミントアイスを買う客を見たことはなかった。
 彼はチョコミントアイスを求めてしばらく足を運んでいた。空っぽになったケースを指さして訴えるが、やがてあきらめて店を出ていく。おばちゃんたちはとてもすまなさそうにしていた。別の商品がケースにおさまるようになって、そのうち店に行くこともなくなった。
 その店にチョコミントアイスがまた入荷されるようになったと情報が入る。それが、彼のためのものであるのかはわからない。でも、なんとなくおばちゃんたちの尽力を想像してしまう。
 それでも彼には、ひとたび行かない習慣ができると、今度はどんなに誘っても行きたがらない特性もある。彼のための再入荷だったら申し訳ないなと思いながら、時間が流れていた。
 そして、今日。夏休みのため、最近とは違うスケジュールを組んだために彼は店の前を通り、チョコミントアイスの存在に気づく。自分から店に入っていき、指さして訴える。数か月ぶりの購入。
 店のおばちゃんもおねえちゃんもみんな出てきて幸せそうだ。久しぶりの彼とヘルパーにいろいろと声をかけてくださる。なんだか、うれしい。
 しかし、である。彼がチョコミントアイスをずっと買い続けていたのは、自分の力ではもう抜け出せないパターンであったからだと思う。
 強くは訴えるが、さほど美味そうに食べている様子でもなかった。でも、他の商品を選ばせようとしても、他の店を薦めても、「変える」ことができない。それゆえ、販売が終わり、本当に望んでいるとは思えないものを買い続ける流れが断たれたことを、家族もヘルパーも前向きに評価している部分があった。
 さて、次回、またチョコミントアイスを「買わねばならない」と思って、彼は売店に行くかもしれない。
 いったい何を大切にするのがよいか。支援者の傾向が見える練習問題のようなもの(いろいろ脚色はしている)。

「障害児」になるとき「障害児」にならないとき

 facebookで書いたことの使いまわしだけれど。
 公園で発達障害の子どもや低学年の子どもを引き連れて遊んでいるときの彼は「障害児」ではない。
 でも、学校では、そろそろ「障害児」と呼ばれかけているし、おそらく本人の困り感も強くなっているだろう。
 学習支援のひろばで勉強をそっちのけにして大人と卓球している彼も「障害児」ではない。カードゲームをやっている子ども集団に入れば「障害児」になるかもしれない。
 ただ、あと2年後ぐらいを想像すると、どこにいても「障害児」となりそうな気がする。
 「みんなと同じようにできなければいけない」とされることがある、というのが社会の社会たるゆえんであり、障害の障害たるゆえんなのだ。
 まとわりついてくる社会からうまく身をかわしながら生きていく人はたくさんいるのだけれど、彼がうまくかわし続けられるのかとなると、そんな器用さは感じられない。
 転ばぬ先の杖、の難しさ。「特別支援教育」や「障害福祉」と関わりがなければ、なおさら。