泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「障害児」になるとき「障害児」にならないとき

 facebookで書いたことの使いまわしだけれど。
 公園で発達障害の子どもや低学年の子どもを引き連れて遊んでいるときの彼は「障害児」ではない。
 でも、学校では、そろそろ「障害児」と呼ばれかけているし、おそらく本人の困り感も強くなっているだろう。
 学習支援のひろばで勉強をそっちのけにして大人と卓球している彼も「障害児」ではない。カードゲームをやっている子ども集団に入れば「障害児」になるかもしれない。
 ただ、あと2年後ぐらいを想像すると、どこにいても「障害児」となりそうな気がする。
 「みんなと同じようにできなければいけない」とされることがある、というのが社会の社会たるゆえんであり、障害の障害たるゆえんなのだ。
 まとわりついてくる社会からうまく身をかわしながら生きていく人はたくさんいるのだけれど、彼がうまくかわし続けられるのかとなると、そんな器用さは感じられない。
 転ばぬ先の杖、の難しさ。「特別支援教育」や「障害福祉」と関わりがなければ、なおさら。