泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

運動と道徳

小松丈晃(2004)「不安のコミュニケーション―社会システム理論とドイツ運動研究」『社会学研究』第76号,5-28.
 メモ。

 ・・・ルーマンは、この「不安のレトリック」のある重要な側面を指摘する。機能的に分化した社会においては、社会全体を代表しうる場所などはもはやなく、すべての機能システムに対する拘束力をもった(つまりいかなる機能システムによっても疑問視されえない)規範をコミュニケーションできるようなそういう特権化されたポジションもありえない。そうしたいわば「原理的な規範・道徳」はいまや過去のものである。だが、ルーマンは、そうした中にあって「不安のコミュニケーションは、その代役として考えることができるように思われます」と述べ、「不安」がかつての原理的規範の位置についているといえそうだ、という。というのは、不安のコミュニケーションは、「不安がある」と主張する人に対しては誰も反論を企てることができず、つねにそれは異論の余地がない確かなもの=真正のものだという利点を持っているからである。「不安である」とある人が発話するとき、「ほんとうにその人が不安を感じているかどうか」と問題化することはほとんど意味をもたず、その人がおこなう発話のほんものさ=真正性は、無条件に受け入れざるをえない。(8-9ページ)

 ・・・ただし、注意しておきたいのは、「だから運動は『道徳』を掲げるのをやめよ」とは、ルーマンは言わないことである。むしろ、上述したこととは矛盾するように聞こえるが、道徳に依拠した抗議運動は、そうだからこそ、積極的な働きを有していると、述べるのである。すなわち、「抗議運動が、環境を、社会の〔機能システムのような〕それ以外のシステムよりもよりよく認識できるとかより正しく判断できるということに賛同することはできない。しかし、このような幻想はまさに、次のことを抗議運動に可能にさせる盲点として、抗議運動の役に立っているのである。つまり、コミュニケーションに対するコミュニケーションによる抗議を演出しもし抗議運動がそうした演出をしなければ社会は構成することができなかったであろうリアリティを、社会に供給することを可能にする盲点として、である」。
 機能システムによるコミュニケーションだけでは決して把握することができないリアリティを、「道徳化」した抗議運動は構成できる、というのである。ここで、「盲点」という言い方をしているのは、上述したような、運動の貫徹それ自体が別な問題の産出に貢献しているといったような側面が、運動自体にとって明確に可視化されてしまえば、運動は続行できなくなる、という意味においてである。みずからの立場を「社会」にとっての「善」とする「道徳化」によって、運動は支えられているわけである。(14-15ページ)

 やっぱりルーマンおもしろい。近代化の中で「社会福祉」が分出してきたプロセスも、こうした運動論との関係で理解したらどうなるのだろうなどと考えてしまう。ちゃんと勉強したい。ただ自学自習で理解できる自信はゼロ。