泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

実習先

 大学院の後輩が「実習生として受け入れてくれ」というのを断り、いっしょに実習先候補の検討。
 うちで学べることと本人の関心事がかけ離れている、というのももちろんだけれど、大学院生レベルの実習はやっぱりきちんと「ソーシャルワーク」を学べる場所を選んでほしいと思う。社会福祉士の実習なんて、ほとんど「ソーシャルワーク」を学ぶものになっていない。
 政策の流れとして相談支援はどんどん縮小されている。だから、適切な実習先というのは減る一方だろう。その反面で、社会福祉士という「ソーシャルワーカー」はどんどん養成されて増え続ける。そして、役に立っていない資格をもっと使えるものにしようと専門職団体は躍起になる。自分たちの知識や技術を活かそうとする態度には思えない。ただ「資格」を持っていることを有利に働かせたいだけだ。その結果、実習も強化されようとしている。
 福祉的な支援として漠然と捉えられているものを、それぞれにソーシャルワークと関連付けることはできるだろう。ソーシャルワークの定義からして確定しているわけでもなく、最も広義なものなどはほとんど「社会的な問題を解決する」と言っているにも等しい。しかし、現場の実感からすれば、多くの「問題」の中でも困難さの質的な差異というのは間違いなくあるのだ。そして、最も解決困難な問題は、特定の機関に集まっていくことが多い。そんな機関であるほど、学生が入り込むのは難しい。最も学べる場は、最も入り込めない場でもある。
 少なくとも「施設」を中心に生活を支えていくような福祉が終わりつつあることには、みんな気がついていると思うのだが、「相談支援をするにはやはり施設職員として勤めた長年の経験がなければ無理だ」というムードも根強い。しかし、そんなこと言っていられるのも特定の歴史的文脈の中にある福祉だけで、それでは済まされない人々の生活というのもある。高齢、障害、児童の単純な区分から早く抜け出さないと、いつまで経っても「ソーシャルワーカー」は育たないような気がする。