泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

負けてもいいリレー?

 年末調整。先ほど、職員全員分の計算終了。定率減税廃止ということの重大さがわかった。所得が多ければ、もっと影響は大きいはずだが、世間は給料日にどう受け止めるのだろう。参院選前に住民税があがったときのような感じだろうか。
 昨日は某学童に入っていたが、周囲との強調とか折り合いという点で考えさせられることは多い。
 みんなで競技性のあることをしようとすると、障害をもつ子どもに対する風当たりはどうしても強くなる。「うちのチームに入ると勝てない」とか「こいつをチームから外してくれ」とか、辛辣な言葉が飛び交う。もっとも、それは必ずしも障害の有無に限った話であるわけじゃなくて、「負ける」のが大嫌いな子どもにとって足を引っ張ると思われる子どもはすべて攻撃の対象になる。実際、他の子どもも「お前のせいで負けた」と言って、泣かされていた。
 みんなでリレーをしよう、とする。2班に分かれる。担当する子どもの足は、遅い。たしかに、この子が入ったチームは確実に負ける。周回遅れになって負ける。ここで、少なくとも指導員のとる方法は、3つぐらいに選択肢が分かれる。
 1.その子どもをメンバーから外し、他の子だけでリレーを行う。
 2.周回遅れの差が出てもよいので、リレーを行う。
 3.その子どもをリレーに参加させつつ、それほどの差がつかない工夫をする。
 その場で指導員はどうしたかと言えば、まずは2でやってみて、その結果3に切り替えた。陸上部じゃないんだから運動会じゃないんだから、と勝ち負けだけではないゲームの重要性を大人は言おうとするが(実際、昨日も言っていたが)、子どもにとってみれば勝ち負けがつくのに、勝敗にこだわるなというのはなかなか難しい注文である。だから、障害をもつ子どもがいること自体に面白みを持たせるルール設定をしたりする。このアイディアを子どもたち自身で創造できればベストだけれど、大人でも機転がきかなければ難しい。指導員の腕の見せ所である。
 学童ならば、これでいい。しかし、この話をより広い社会に置き換えたら、どうか。「リレー」は「仕事」だろうか。「仕事」を除いたときに、障害の有無を超えて協働する可能性があまり思い当たらないことに気づく。歴史的に何かの機会が失われたのか、はじめからそんな機会はなかったのか。