泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

学童・コミュニティフレンド

学童クラブ「70人まで」 厚労省が初のガイドライン
http://www.asahi.com/life/update/0704/TKY200707040463.html

 厚生労働省は4日、共働き家庭の小学1〜3年生の子どもを放課後や休日に預かる放課後児童クラブ(学童クラブ)について、初のガイドライン案を固めた。1施設あたりの子どもの数は最大70人までとし、土曜日や夏休みなどの開所時間は1日8時間以上にするなど、学童クラブの質の確保を目指す。
 学童クラブ数は昨年5月で全国約1万5900カ所、前年比4%増。利用者も約70万5000人で同8%増えた。子ども数が71人以上の大規模クラブの増加が目立ち、親や自治体関係者らから「けがが起きやすい」「子どもの落ち着きがなくなる」などの声が出ていた。
 ガイドラインは預かる子ども数を最大70人とし、職員の目が行き届くよう「40人程度に(グループ分け)することが望ましい」とする。新1年生の利用開始日を入学式とするクラブも少なくないため、新1年生の利用開始は「4月1日から」と明記した。

 建物の場所ひとつとっても様々なのに、どこから「70」の数字が出てきたのか、わけがわからない。このあたりなら、すでに140人を越えているところも出ているのだけれど、半分の子どもはどこへ?
 すでに夏休みの開所時間は10時間になっていて、保護者からは「もっと伸ばして欲しい」という声があがっているのだけれど、子どもたちがそれほどの長時間を過ごすプログラムについては一切議論なし。昨日行った学童では、昼頃にぱらぱらと雨が降ったというだけで外遊びなし。DVDを2本連続上映。木曜に行った学童では、夏休みは「暑いから」という理由で午後からは外遊びなしにしたい指導員と、そんなことではいけないという指導員が対立。意思決定の仕組みがないために、結論の定まらないまま夏休み突入の可能性大。
 このあたりの学童は公営だが、指導員はすべて嘱託職員とアルバイトで、嘱託の年収は150万程度。いったい「質の確保」って、何のことだ。

コミュニティフレンドのガイドブックを公開(misc.)
http://mnagawa.air-nifty.com/misc/2007/07/post_373c.html
 地域生活支援の制度化が進む一方、制度による対応が困難な支援に注目が集まるのは自然な話だし、実際、こういう役割を担う人がいてくれたらいいなと思うことはある。ただ「制度による対応が困難」というまとめ方は我ながらうさんくさい。制度で対応が難しいこととは、何か。
 地域の中で「制度」に還元しきれない私的な人間関係というのがあるべきだ、それが地域でのノーマルな暮らしだ、という主張には概ね合意できる。こうした議論はボランティア論の中ではおなじみのものだ。ただ、その難しさもまたボランティア論の中で言われてきたことである。
 「友だち」という言葉は用いられているが、やはりこれは完全な「友だち」ではなれない。「友だち」は、「私」の支援のためにいるのではない。これは「支援」を目的とした、ひとつの制度でなければ意味がない。当事者にとってどう理解されていようと、仕組みを設計する側にとってはそうである。「友だち」だから、好きなときに本人と連絡をとって好きなように関わってください、とは言えない。最近忙しいので関わってません、では困る。だから、誰か(コーディネーター)が仲介をする。
 「友だち」志向を強調したボランティア活動によって生活を安定的に支えるのは難しいから、あくまでそれは十分な支援制度ができた上で補完的な支援としてあることが求められる。「安上がりなボランティア」にならないように気をつけるべきだ、という話も、ボランティア論の定番だ。しかし、関係性のみを充足する支援というのは形がない。関係性は何かを媒介にして育まれるのだから、そこには買い物や外出や手紙の書き方など具体的な活動が入ってくる。すると、今度は十分にできあがったはずの支援制度と機能の重なる部分が出てくる。それで成りたつ支援が出てくると、行政施策としては「なんだヘルパーじゃなくても、ボランティアでもできるじゃないか」という話に流れていく。これは関係性重視の支援についてまわるジレンマである。
 うちは学生のボランティアにたくさん支えてもらっているので、このあたりの線引きの難しさは痛感している。学生ボランティアとはまさに関係性重視であることが導入の根拠とされやすい(「子どもたちと近い目線で関われる」)と同時に、制度の不備を補う(「長期休暇に障害児が活用できる資源が十分にない」)ものであるからだ。具体的な支援と関係性をきちんと切り分けられればすっきりするが、「どちらも」必要とされているのは確かなことだ。その結果、この事業はボランティアのまま続けられている。職員の膨大なボランタリー労働に支えられながら。一方で、子どもたちの保護者が学生のボランティアに直接連絡をとって「うちの子と遊んで」というのは、法人として決して認めない。そうやって、この関係性が純粋な「友だち」にはなれないことを、示し続けないといけない。寂しくもあるが、それを認めてしまえば、大混乱するのは明らかである。
 「民生委員」がある程度まで機能している(こともある)現状から考えると、やり方によっては何となく成りたっていくのかなという気もする。そのとき「フレンド」という名称が、誤解を招かないかどうか、は心配。「友だち」のやっていいこと、やってはいけないこと、が誰かによって管理される、というイメージを持つ人は少ないのだから。