泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[日誌]学生ボランティアと欲望

 腰に負担をかける介護はほとんどしていないはずなのになぜだか腰痛が悪化する中、学生のぐだぐだなミーティングにイライラ。これはミーティングでもなんでもない。ただのおしゃべりの延長である。
 学生リーダー数名にセミナーの案内をメール転送したら、うち1名から「これは『行け』ってことですか?」と質問。笑って返しながらも、内心は憤懣やるかたない。すぐに岡田憲治『はじめてのデモクラシー講義』のまえがきを思い出した(正確には「この本はひとつのギャンブルである―まえがきに代えて―」)。この「まえがきに代えて」は、昨今の学生の現状と課題をコミカルに書いた名文。日常的に学生と関わっている者なら、おそらく共感せずには読めない。

 筆者は、大学で仕事をしています。政治学の教員です。講義が終わってやれやれと思っていると、ボンヤリとした目をした一人の学生が近づいてきます。
「質問あんですけど」
「なんだい?」
「講義中に参考文献あげてたじゃないですかぁ」
「うん」
「あれって、やっぱ読んだほうがいいんすかぁ?」
「あ゛?」
 基礎ゼミナールが終わって、ふうと一息ついていると、やっぱり一人質問に来ます。その妙に邪気のない表情に、ちょっと「嫌な予感」がします。もしかして「(あ・れ……か?)」

「来週までに書いてくるレポートなんすけどぉ」
「う、うん」
「自分の意見とかぁ、やっぱ書いたほうがいいんすかぁ?」
ビンゴ。
(中略)
教えてもらった参考文献を読み「たい」と思えば、書店か図書館に行くだけであって、「うぜぇよ」と思ったら、忘れてしまえばよいだけなのに、「読んだほうがいいんすかぁ?」とはどういうことなのか。これはね、君が決めることなのだよ。読み「たい」のか、読み「たくない」のか、僕にはどうしようもないことだし。
(中略)
 何の志もなく、つるむ友達を探しに来るためだけに大学に来ている学生の質問ならともかく(そもそもそういう人は質問などしに来ませんが)、やって来る人はだいたいみなまじめな学生が多いのです。大学で学生たちと付き合うようになって10年以上ほどが経過しましたが、この「?」は日に日に強まるばかりです。そして近年あるところに考え至るようになりました。キーワードは、
「僕たちの欲望のありか」
です。どうやら筆者が大学でやりとりしている学生たちの持つある種の「欲望」が年々希薄になって来ているのではないかと思い始めているのです。
(中略)
 信用するとひどい目にあうが、信頼するに足る、そしてなんだかんだで憎からず思える学生諸君よ。一つだけ訊いてみたい。
「君は、どう思いたいのか?」と。

 ちなみに「あとがき」も名文だけれど、これ以上書き写すのはやめておく。
 活動する中であれこれうまくいかないと日常的に思っているのに、そしてそれでも活動を続けたいと毎週ミーティングに来ているはずなのに、誰かから「与えられる」のをいつも待っている。かと思えば、実際に与えられると押し付けられたように感じて抵抗感を示す。こちらとしてはいつでも選択肢を示しているだけ。多くの学生たちが選択肢の存在そのものをよく知らないから、与えられたものが「解答」なのか「選択肢」なのかの区別がつけられていない。
 おまけに忙しいとかレポートがたまっているとか、そんなことはどこの学生組織もいっしょなのだから、自分たちで整理をつけなさい。まったくもう。