泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

[日誌]仕事として選ばれるには

 学生スタッフと話していると、家庭裁判所の調査官になりたいと言う。理由はあいまいなもので、まだ具体的なイメージも描かれていないのだが、第二志望も「精神」の分野だと言う。
 どうして知的障害分野でこれだけ活動をしていながら、いい人材がこの分野で仕事を続けようと思ってくれないのだろうと考えると、やはり「仕事とするには物足りない」のではないかと思う。
 4年制大学の社会福祉系学部のカリキュラムは「ソーシャルワーク」を強く意識している。しかし、知的障害分野において学生がボランティアやヘルパーとして垣間見ることのできる世界は、ソーシャルワークからは程遠い。それに輪をかけるようにして、学生ボランティアが活発なこの分野では、知的障害をもつ人と関わることを「楽しいこと」として意味づけ、「自己実現」をモチベーションの源泉として参加へといざなうことがかなり一般的になっている。学生を巻き込もうとするときに、知的障害者やその家族の生活困難を長々と語る者は多くない。「重く」受け止められれば、支援への敷居が高くなると考えるからだ。支援の動機における「利他」と「利己」の完全な区別はできっこないが、「利他」にはいろいろあり、背後にパターナリズムが隠れている可能性だってある。楽しいからする支援は「ボランティア」観や「知的障害者」観を変えてきたのかもしれない。ただ、こうした環境は本当に人を育ててきたのだろうか。
 「楽しさ」を入口にしたとして、出口はどこにあるのか。多くの職員が大卒で入ってくることを前提にすれば、支援者が学生でいる間に何を見せることができるのかは、この業界の重要なテーマであるはずだ。いっしょに授産作業をするだけ、大法人の関係施設を順番にまわって終わるだけの社会福祉実習にはあまり期待できないし、自分たちこそが考えるしかない。一方で正直に言って、自分が仕事で苦労していることはいろいろあるが、最も困難を感じているのはヘルパーの需給調整である。この状況を見て、学生たちは何を思うだろう。