泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

比較

 全国障害者介護制度情報の掲示板が盛り上がっている。
http://www.kaigoseido.net/topF.htm
 さまざまな書き込みに「事務局」が対応しているが、かなり政治的にはっきりとした意思表示をしている。それについてどうのこうの言うつもりはない。気になるのは、以下のような主張である。前後の文脈を切り捨てるのは乱暴だと承知の上で、一部抜粋。

 施策の優先順位としては、外出介護よりも、死なないための、生存のための介護が優先されるのが当たり前ですが、現実はそうなっていません。(754)

 施策の優先順位としては、予算を増やさないのならば、まずは命の危機のある部分に使い、次に社会参加などの文化ニーズに使っていくのがあたりまえです。その当たり前が行われていないという問題があります。(754)

 自己負担がまったくなくなると、家族同居の移動介護の利用者の歯止めがかからず、財政難が拡大します。(749)

 これらは「移動介護なんかに金を使うくらいなら、生存のための介護に金を使え」と読み取られても仕方がない(と少なくとも自分には思える)。一見、筋が通った主張のように思えるが、このような欲求階層論的な施策の提言には、率直に言って全く賛成できない。
 まず、行動援護類型の創設ともつながる話だけれど、移動介護だから「社会参加などの文化ニーズ」を満たすためのものだ、というような単純なものではなかった。再三書いてきたが、運用実態として移動介護は多機能である。また、仮に社会参加の支援を主機能と認めたとしても、外出するという極めて「当たり前のこと」をこの時代に「文化ニーズ」と言って「生存」と比較することは適切だろうか。
 24時間の介護保障が必要な人がこの社会にはたくさんいるにもかかわらず、そのほとんどの人が必要なだけの介護を受けられていないということはその通りであり、この人たちに介護保障が必要であると主張することは全く正しい。自分にわからないのは、そこでなぜ「他の支援の必要のなさ」を訴える必要があるのか、ということである。この論理を障害者福祉業界の内側でのみ押し通そうとするのは、障害者・事業者間の対立を深めさせるだけの中途半端なリアリズムではないのか。パイの奪い合いをするのではなく、なぜパイの大きさそのものを問わないのか(義務的経費化はちゃんと評価しているようであるが)。文化ニーズが許せないなら、「文化政策なぞ必要ないから、福祉政策に金を回せ」と言えば十分だろう。
 論点は少し変わるが、そもそも「命」や「生存」にかかわる介護とは何のことを指すのだろうか。単純に医療的なケアの必要な介護のことだろうか。重度の知的障害をもつ人々は必ずしも医療を必要とするわけではないが、もし彼ら彼女らが一人暮らしをはじめるとしたらどうか。そのとき必要となる支援は「命」や「生存」にかかわらない介護だろうか。掲示板内でそんな議論はされていないし、書き込む人々がどう考えているのかはわからないが、なんだか前提とされている障害者像が偏っているような気がして仕方がない。これが、知的障害者の地域生活支援をやっている者の単なる被害妄想であるとよいのだが。