泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

体験談2つから

 ひとつ目の話。大学2回生のときの話だから、もう9年近く昔のことになる。当時、学生ボランティアサークルの代表をしていた自分は、あちこちの団体と学生ボランティアの間で需給調整の真似事をしていた。
 サークル員のうち、数名が身体障害の方の生活を支援していた。基本的に無償のボランティアだったが、外出時の費用負担について問題が生じた。交通機関の利用時は割引などあるが、映画やコンサートなど内容によっては、介助者の分も費用負担が生じることがある。この費用は誰が持つべきなのか。今よりも制度が未熟な時代であり(何らかの使えるものがあったかもしれないが、当時の自分たちにはそんな知識さえなかった)、支援の内容は当事者間で決めることができた。では、どう決めるのか。そのとき、それぞれの価値観が如実にあらわれる。
 学生集団は2つに分かれた。障害を持つ方に全額の費用負担を求める者。全く費用負担を求めずに、それは自分たちで払えばよいという者。前者は、自分たちが「障害者」の「介助者」であることを求め、後者は「○○さん」の「友だち」であることを求めた。
 ひとりの学生が尋ねた。「○○さんは、私たちに介助をしてほしいんですか? それとも友だちになってほしいんですか?」。直接的で無神経なひどい質問だったと思う。それでも、その方は答えてくれた。「わがままかもしれないけれど、僕は介助もしてほしいし、友だちにもなってほしいんです」。結局、どちらも満たそうとする者だけが残った。
 もうひとつは、自分の話である。浪人中の過度のストレスに体調不良が加わり、大学入試直前になって精神に変調をきたした自分は、大学入学の少し前から精神科に通うようになった。通院は不定期なものだったし、投薬もはじめのうちの少しだけだったが、大学の4年間はずっと情緒不安定でかなり苦しかった。ようやく安定したと思えるようになったのは、まだここ数年のことである。
 精神科医にはいろいろな話をした。幼児期からの人生を一通り振り返った。自分がなぜこんな状態になったのか、少しずつ見えてくる気がした。話しながら頭の中が整理されることで、ずいぶん楽にもなった。ただ、そのおかげで自分が最終的に救われたとは今でも思えていない。医者との対話は、ずっとむなしかった。それにはいくつか理由があったけれど、一番大きなものははっきりしている。こう思っていたからである。「この人は、自分の話を聞くのが仕事なのだ」。
 何が言いたいのかと言えば、自分と他者との関係がいつでも「仕事」を媒介したものであることに、多くの人はきっと耐えられない。時代が役割期待にまみれた関係性を求めれば求めるほど、そこで満たされないものも大きくなる。
 昨日の日記で、自分が「支援者」であり「経営者」でもあることの葛藤を書いた。いずれの立場にせよ、自分は今「仕事」で知的障害をもつ人やその家族と接する立場にある。一方では、それ以前にひとつの人格でもある。そして、ひとつの人格として関わることを、積極的に利用者から望まれることもある。知的障害をもつ子どもたちから見れば、自分が「ガイドヘルパー」であるのかどうかだって、大して意味のないことかもしれない。立場から来る「線引き」が理不尽に思われることだって多いに違いない。
 これから制度がどう転ぶかによって、きっと支援が「仕事」になりきれるのかどうかも変わるのだろう。しかし、どちらに転んだとしても、きっと何かが失われる。そのとき、失われたものは誰がどう補完するのか。私たちは、どこかで見通しを立てておかなければいけない。