泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

苦境

 どうやら週明けの会議で、何も現場の状況をわかっていない専門家と、表面を取り繕うだけで何もしない現場の人々と、苛立つ利用者家族に取り囲まれて、自分は血祭りにあげられるようだ。この顔ぶれでは何も言えない。何か言ったら、この先の仕事は円滑に進まない。ただひたすら自分の不徳のいたすところと謝って、おっしゃるとおりですと、うなずかなければならない。これまでの努力はすべて否定されるが、それにも決して反論をしてはいけない。既にわかりきった技術論をはじめて聞くかのような顔で聞き、こんなふうにすればよいのですね、と納得してみせなければならない。何もわかっていない専門家ができるはずのない提案をして、建前で話をする現場の者が「そうしましょう」と言うだけで全くそうするつもりはなくても、うまく話がまとまったようなフリをするのだ。その後、何ひとつ状況が変わらないとき、利用者家族や専門家から激しく責められるのは自分であるとわかっているが、その場では決して不可能だとは言ってはならない。それを言えば、もっと悲惨な結末が待っている。
 自分の手持ちの知識がすべてだと信じて疑わない人たちと仕事をするのは苦しい。自分は「信じて疑わない」ことが嫌いな人間なので、自問自答ばかりする。上のように書きながら、自分のこれまでの力量の無さも責め続けている。誰かに責任を帰属させたい人たちにとって、こんなやつは格好の標的だ。利用者家族は、自分のことをわが子の敵のように見ているが、勘違いも甚だしく、敵は全く別のところにいる。それと闘うことになれば、この家の生活は崩壊するだろう。利用者と家族のために、生贄になろうではないか。