「選びがたさ」のスペクトラム
知的障害をもつ子どもにとって「選ぶ」のは容易くない。提示されたものの中から「選ぶ」というのもひとつの能力で、「選んでいい」ということがわからない子もたくさんいる。「人に選んでもらう」ことに安心して済ませる生存戦略の子もいる。
しかし、最もしんどいのは「この中には自分の選びたいものが、ない」と表現するのが難しい子だろう。
その子は無理をして選ぶ。本人が選んだのだからと周囲は与える。「選べた」ことを喜んで与える。しかし、本当は望んでいないから、本人は我慢しながら受け入れる。あるいは、どうしようもなくなって爆発する。我慢が積み重なって、数年がかりの時間をかけた大爆発はしばしば強烈だ。
もっと複雑な形もある。その「瞬間」の希望として選んでいるが、先々のことまで考えずに選んでしまい、混乱する。いつものやり方から外れていき、どちらへ進めばいいのかわからなくなる。もとの軌道に戻ることができない。混乱のあげく、やはり爆発する。
本人に選ばせた結果として爆発するのだから、「代わりに選んであげるのがよい」という人が出てくる。しかし、うまくいかなかったのは「選ぶ」ことそのものではなく、「選ぶ」対象の範囲や連なりに対する情報処理や理解である。「選ぶ」主体の能力を疑うばかりでなく、「選ばれる」対象の見せ方を考えなければならないのだ。ここが自分たちのような「支援者」に求められる仕事である。
と、障害をもつ子どもの支援について書きながら、これを政治などに重ねてみても違和感がない。自閉症は「スペクトラム(連続体)」だと言われる。選ぶことの難しさもまた「スペクトラム」である、と思う。さて、社会を導くような選択についての「支援者」とはいったい誰だろうか。