泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「子育て支援」の境界を崩す

・障害児の親の会と学生たちで行う活動のおつかれさま会。参加が合計40人ちょっとか。
・おそらくこの種の活動は廃れていく。それは活動の意義がなくなったということではない。ただ、意義を感じにくい時代になっていくだろう、ということ。
・この活動のファンである保護者は減っていくはず。何もなかった時代には支援とつながるはじめの一歩だった。いまは一歩目になることに失敗している。それを防ぐための手立てはあるのだけれど、危機感自体が皆に共有されない。だから、何の工夫もされない。
・すでに消極的と思われる保護者がちらほら。親の会役員になっちゃったから、仕方なく。わが子への価値が伝わってこないものから親は離れる。それだけのこと。伝える努力をしなければ、なおさら。
・夕方のスーパーでカゴを持ったまま、保護者につかまる。まだ若い保護者も、もっと若い保護者とのギャップを感じている。昔から、同じ構図。同じだけれど、質的に同じかどうか。
・「みんな忙しい」「本とか読まないし、講座とかも行かないから、四コママンガとかでないと無理」「でも、保護者どうしでランチには行く」。このあたりも仕掛け次第なのだろう。
・怒りや不安から行動する保護者と、なんとなく流れに身をゆだねる保護者と。これも昔からだ。それでも、二極化がいっそう進んだ気がするのは、なぜだろうか。
・「サービス」で解決するものとしないもの。サービスがないから困っている、は自覚がされていたのかもしれない。サービスでは解決されない問題は、いつから社会的な支援が必要だと自覚されるのだろう。
・「そんなもん」だと思ってしまえば、そんなもん。「障害児の親」は「支援」を受けるが、「普通の親」は自分で何とかしている。そんな理解だってありうる。「子育て支援」は乳幼児期に受けるもので、学齢期で「障害児というほどでもない」わが子に必要なのは「支援」ではない。ナントカ塾のような場があればよいだけ。
・障害児が生き、育まれることに支援が必要なのではなくて、子どもが生き、育まれることに支援が必要な社会。そんな発想の転換をできるように活動のシフトを図ってきたが、それも伝わっていない。法人内ですら伝わっていない。
・一部の支援者の熱意とは裏腹に薄れゆく危機感と、それに倣うように弛んでいく支援者。当たり前の目標設定と社会観が失われていく。
・こんな田舎ですら相対化していく子育ての中で、自分たちとして譲れないものをどこまで保つか。ダブルスタンダードにはならないように。かつ誰もこぼれ落ちないように。