泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

加害者が信じる「救済」が誤りであるとして

 元少年Aの手記出版について、辛辣な批判が目につく(それに同調しない主張に対しても)。
少年A 神戸連続児童殺傷事件加害者の手記「絶歌」のあとがきに怒りに震えた
http://quadstormferret.blog.fc2.com/blog-entry-224.html
はてなブックマーク - なぜ、あなたが加害者を憎むのか? - キリンが逆立ちしたピアス
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/font-da/20150611/1433990832
 彼はとてつもない罪を犯して、それから多くの大人が彼をもういちど社会の中で生きられるようにしようと力を尽くしたわけだ。彼はこれまでの言葉を聞く限り深く反省もしていたように見えた。「『本当に』反省しているのか」なんて問いは無意味だ。心は見えない。行動から押し測るしかない。
 「被害者の心情を無視して本を出版する奴が反省などしているはずがない」のかもしれない。本など出さずに静かに生きて行くのが反省した者の姿なのかもしれない。
 では、彼が本を出さずにいられなかったのは、なぜか。
 自分の半生を記した本を出すことでしか自分が救われない、と思ったのだとしたら、それは誤りなのだろう。それを誤りにできなければいけない。けれども、彼はそれを誤った考えとして排除できなかった。事件から長い長い時間を経て、多くの経験を積んだ末に「これしかない」と思ってしまった。
 本を出すことはひとりではできない。もっと言えば、これほど社会的な注目を集める者がどうしても本を出したいと思ったとき、「本を出さない」という判断もひとりではできないのかもしれない。
 出版を叩くのも簡単だし、「甘えるな」と叱責するのも簡単だけれど、彼が「これしかない」と信じているのならば、いかにして彼は「これしかない」と思うに至り、なぜそれを「違う」と誰も否定できなかったのか、を問わねばならないはずだ。しかし、みんな手前で怒り続けている。このままだと、被害者と共感者は怒り、加害者はこのやり方に自身の「救済」を信じるだけで(それが長期的に見て、うまくいくとはあまり思えない)、誰も救われないのではないか。
 こんなふうに考えるのは、分野が少し違うとはいえ、自分が「支援」を仕事にしているからなのだろう。支援をする相手が何か「社会的に認められないこと」をしようとしたときに(ささいなことから重大なことまでいろいろある)、それを叱責することで相手が「わかりました」と行動を変えて生きていけるならばよい。ただ、多くの場合、支援というのはそんなふうには進まない。
 彼にしか語れないことがあるだろうし、加害者が再び社会の中で生きていくために何が必要なのか、は議論されるべきことだろう。様々な疑念と批判が渦巻いてしまう「手記」以外の方法がなかったのか、とは思わずにいられない。