泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

追いつかない多様化

 就学前の療育をはじめて最初の就学先の選択にいくらか関わるようになり、もう5年ほどが経つ。中学をどうするか、という悩みにも付き合っていくことになるのは必然だ。そして、中学の選択は、もっと先から逆算されたりするから、高校選択とも深く結びつく。
 しかし、保護者のもとには情報が集まらない。小学校への就学時以上に集まらない。「保幼小」の連携はあるが、「小中」の連携はどうやらあまりない。「普通学級」と「支援学級」のあいだで、通級指導も含めて、子どもの状態に応じた選択を続けていけるような雰囲気がない。そして囁かれる「支援学級に行ったら、もう普通学級には行けない」「支援学級に行ったら、もう普通高校には行けない」という制度的には何の根拠もない情報。法規のレベルでいくら確認したところで、運用のレベルで前例に引きずられたり、教員が本気で進路指導にあたる気がなければ、保護者はただ分厚い壁の前に立ち尽くして、無力を感じるばかり。
 子どもが自分で自分の進路を決断できる年齢にもなるわけだが、自分で決めたから後悔しないとも限らない。自尊心だけは傷つかないようにと周囲は思えど、失敗体験が強く焼き付く子どももいる。自ら傷ついて、嘆き続けることだってある。柔軟にやり直しがきかないシステムの中から選べと言われたら、みんな迷う。障害の有無とか関係なく、この国の教育システムはそうできている。中学や高校の生活はとりわけ自由度が低く、生徒どうしの関係も難しい。
 柔軟にカリキュラムが選べるような高校が創設されたという話もあったけれど、おそらくそんな学校への需要は高すぎるのだろう。思うような生徒層は集まらなかったとも聞いた。希少な選択肢には人が集まる。多数派になじめなかった子どもが集まる。発達障害に限られるわけでもない。貧困、不登校、引きこもり。学力にだけ遅れや偏りがある子だっている。子どもの多様化に追いつけない学校の多様化。福祉は未熟でも少しばかり多様化した。教育の発展はどこに向かっているのだろうか。