泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「子どもの貧困」対策を「障害児」の支援者が見たら

貧困のなかでおとなになる

貧困のなかでおとなになる

 ひょんなことからひとり親家庭の支援に関わることになりそうで、読んだ。
 これまでも「当たり前の暮らし」とは何だろうか、と仕事の中で考えさせられてきたけれど、子どもの貧困についても同じだ。
 「医療」のような生存に直接関わってくるものを欠けば、誰もが問題だと思う。しかし、たとえば「教育」はどこまで必要か、と言われれば、よくわからなくなる。
 「そんなことはない。ほとんどの子どもは高校ぐらいまでは進むのだから」と言われるだろうか。それでも、高校で学んだことが実社会で役立つから高校に行くのではないと思う。将来に向けて具体的な夢や目標があって、そのために必要な勉強をしよう、でもない。
 社会に出るには、大学に行ったほうが有利だ。大学に行くには、高校に行かなければならない。あるいは、世間が「高校ぐらい卒業していなければ」と社会のスタートラインに立たせてくれないから、高校に行かなければならない、となる。するとこの国では公教育だけでは足らない現状がある。学習塾や予備校が当然のごとく必要とされて、多くの費用を求める。
 程度の差こそあれ、今の世の中に合わせて合理的な方策として必要とされるだけだ。普遍的でないものは簡単に相対化される。「世界にはもっと教育を受けられない人々もいる」という主張も出てくる。比較的高学歴の人々の中で生きてきた自分も「大事なのは教育が受けられること、であるよりも、無駄に学歴を求める社会の側のありようなのではないか」とも思う。
 しかし、それを叫んでも、子どもをめぐる社会環境が変わるわけではない。公教育だけで、簡単に成績が上げられるわけでもない。この国の当たり前は、塾や予備校に通い、およそ高校(や大学)に進学してから、社会に出ていくことになっている。それが正しいとか、間違っているとかは関係ない。とにかく、そういうものなのである。
 多様な発達をもつ障害児の「当たり前の暮らし」を考え続けて行きついたのは、その社会その文化の標準的な暮らしにまずは準拠できるところを目指していくしかない、ということだった。それがひとりひとりの人生にとってベストかどうかは疑いうる。定型発達にとっての理想的な生活様式が、自閉症者にとっても幸福を実現するものであるとは限らない。ただ、多数派の規範から離脱するにしても、一度は標準を目指してからのほうがよい。はじめから標準を疑いだすと、いったい何を信じてよいかわからなくなる。
 標準的な暮らしを支援者は疑える。もっと別の暮らしを想える。だから、人さまの暮らしにとやかく言いたくなる。しかし、それもまた経験的に到達した域である。はじめから疑えたわけではない。当事者本位の生を選び取ってもらおうとすればするほど、まずは「標準」にあえてとらわれていくような支援をすべきなのだろう。もちろん、その先でもっと違う生き方を選ぶようになってもよいし、社会の根本的な価値観を変革しようと運動してもよい。どのぐらいの時間を要するかはわからないし、ずっと標準に準拠していきます、で一生を送るかもしれないけれど。
 子どもの貧困対策に力点を置いた施策が進められつつある。そして、その中で「学習支援」は特別な位置を与えられているように見える。この本に登場する事例にも学習塾の代替となっているような活動が多くみられた。自分たちが少し関わりはじめることになるのも、どうやらそこからになると思う。それでよい、と思えるのは、長く障害児の支援をしてきたからであるのかもしれない。