泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「できない」に対する「できる」ではなく

・教育が「教える」のは「できる」ようになることを目指すからだ。何ができるか、の水準はいろいろあるけれど。

・福祉が「できる」ようになることを目指すことがある。「福祉」にそれを求める親もたくさんいる。

・支援には目標が大事だと言われる。そして、それを達成したかどうかが問われる。「療育」の「計画」に目標が書き込まれて、「できる」ことを支援者が目指す。

・支援者の目標は、子ども自身の目標とは違う。とはいえ、子どもの「できる」といつでも切り離して考えられるわけでもない。「余暇を楽しむ」ことでさえ、能力と切り離すのは難しい。

・「楽しむ」というのは「楽しめるようになる」ということでもある。楽しいから楽しい、ことばかりでなく、楽しいとわかるようになったから楽しい、ということがある。それはひとつの学びだ。

・「できる」ことが子どもの自信や喜びにつながることがある。「できる」ことが子どもの快適さにつながることもある。「わかる」も「できる」のひとつだ。わからないよりもわかったほうが、楽しい。

・そして、「できる」は子どもの力だけで達成されるのではなく、環境の中で達成されるのだから、「できる」というのは子どもだけの状態像を指していない。環境と子どものセットで「できる」。

・能力が属人化されないこと、能力が子ども自身のためにあること、を前提とすれば、「できる」を求めてもよい、と言えるだろうか。

・しかし、上を目指せば、きりがなくなる、とも思う。

・子ども自身のため、とは言うが、何が子どものためになるのか、は難問である。社会の側からおしつけられる「できる」を、あなたのためだから、と置き換えるのはそんなに難しくないだろう。

・そこで「子どもの願い」が大事だ、ということになる。教育がまんべんなく子どもの育ちを分析して、ひとつひとつの要素について目標設定をするのに対して、「子どもの願い」によって目標を絞り込んでいく。すると、少し「福祉的」になったような気がする。

・けれども、子どもが小さければ小さいほど、「願い」はわかりにくくなる。おそらく「願い」が個別化されていくのは、子どもが社会とのかかわりを深めていく中においてなのだろうと思う。

・生まれたての子どもの具体的な「願い」が想像できないことに誰も疑問を感じたりしない。子どもが幼いうちに、支援者によって具体的な「願い」が想像されてきたら、あやしさを感じたほうがよい、のかもしれない。

・すると、想像できないものを無理に想像するよりも、およそ子どもが穏やかに生きていけるために必要なものをずらりと並べて、ひとつひとつの項目の達成を目指すことになる。こうして「療育」なるものは「教育」との差がわかりにくくなる。

・もちろん、「療育」に至る契機としての「暮らしにくさ」とか「困り感」はあるのだろう。事業所の社会的機能としても「教育」とは異なる。ただ、子ども自身へのアプローチとしては教育と重なっていく。そして「福祉」的なアイデンティティをもつ自分は、もやもやする。「療育」とは、内容だけ見たら「ものすごく丁寧な幼児教育」になってしまうのだろうか。

・なんとなく違いを感じるのは、療育の場合、ありのままの世界や社会は子どもにとって多くの恐怖や不安や誤解を伴わせるものだ、という理解が支援者の側にあって、そこから目標設定がなされていくのではないか、ということ。

・ここでの「できる」「わかる」とは、「できない」に対する「できる」や「わからない」に対する「わかる」であるというよりも、「間違ったでき方」や「間違ったわかり方」を避ける、という意味なのではないか。そのように考えると、療育において子どもも大人も少し自由になれるかもしれない。

・支援計画の立て方が今さらながら法人内で課題になっていて、どうやらテキストとなるようなものを自分が書かねばいけないようなので、考え始めてみたが、今夜はここまでが限界。