泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

いっしょに助走をとる支援

 電車での移動中はひとりで静かに作業などしたいのだが、同じ場所へと向かう他事業所の長につかまってしまい、たくさんしゃべり続ける羽目に。帰りも無視するわけにはいかず、地元に帰ってきてもさらに話し続ける。
 子どもをたくさん事業所に通わせようとする親に対して最初から厳しい姿勢を見せて、嫌われたりすることに自嘲的でありながらどこか誇らしげでもある支援者がしばしばいる。親であり支援者でもある人には、特に。
 過剰と思えるほどたくさんの日数を利用したいと望むとき、その保護者にとっては何らかの必然性とか合理性があるはずだ。自分で「異常」と思っていたら、そんな要求は出てこない。
 だから、その親にとって何がスタンダードであるのか、何が必要であるのか、を理解しなければいけないのだけれど、率直に言いたい。一度や二度会って、話を聞いたところで、そんなことはわからない。わからないのに、支給日数や契約日数をはっきりさせたいから、ひとまずわかったことにして、日数を決める。が、納得できる理由が親から表出されなければ、希望は削られることになる。
 サービス事業所でも相談支援事業所でも、これは同じだ。「サービス」のためのアセスメントやインテークが支援の起点になっているから、信頼関係を築く前にあれこれ疑ってかかる。そして、失敗する。
 「サービスを使いたい人は○○へ相談してください」というメッセージばかりが強調されるようになったことも計画相談の負の側面であろうと思う。ただでさえ、相談支援事業所はサービスと結びついて理解されやすいと思うけれど、サービス利用計画のせいで余計にサービスなしの相談がイメージされづらくなってはいないだろうか。
 「サービス」以前に、支援者と出会える場をいかにして作るか。うちはサービス外でもいろいろと出会える活動を企画実施しているが、最近では親サイドから「今どき必要なのか」「サービスの枠組みの中でやったらいいのではないのか」などと言われることが増えた。
 それはおそらく逆なのであって、サービスを通じた関係だけではうまくいかないからこそ、サービス外の活動は重要度を増している。が、「サービス」だけで特に不満もなく生活が安定するところももちろんあるから、そうした保護者は何のためにサービス以外の活動がいまだに残っているのかピンとこない。これが現状。
 サービス利用に至るまでの助走期間を、保護者と支援者とでいっしょに走れるとよい、と思う。