泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「良い人」よりも「わかりやすい人」

 知的障害や自閉症の子どもの支援をしていると、わかりやすく振る舞っている自分がいる。子育て広場などで出会う乳幼児に対しても、そうだ。
 日常的にはとても抑揚のない人間なので、支援しているときの自分は「演じている」に近い。それも相手によって、役は使い分ける。
 少し「無理をしている」のかもしれない。自然体で支援者としての構えのようなものができている人はいる。誰と接するときも同じ態度で問題なくやれる人をうらやましいとは思う。
 子どもに「人は、信頼できるぐらいには理解可能である」と知ってもらわないといけない。便利な機械や世の中の基本的な仕組みと同じくらいに、人もまた頼って大丈夫なのだと。
 硬貨を入れてボタンを押せば飲み物が買え、鉄道やバスで移動ができたりすること。それに対して、人がいつも変わらずにいてくれること。後者のほうがずっと難しい。人間は社会よりもずっと信頼するのが難しいのかもしれない。しかし、そう思えば、生きづらい。
 自分たちは、子どもたちの身近で人間の理解可能性を示していく必要がある。この人は「わかる」と。この人の行動に予測がつくし、この人から求められていることもわかるし、この人は自分の思いを理解してくれると。
 まず「わかる」ことが大事なのだとすれば、「良い人」か「悪い人」かは大きな問題でなく、「わかりにくい」ことを問題視すべきだろうか。「何を考えているのかよくわからない」とか「一貫性がない」とか言われやすい者は、支援者として少しハンデを背負っているのだろう。ああ、まさに自分だ。あるいは、わかりにくい人が悪い人だ、となるか。
 自分の深いところが否定されるわけではない。ここで否定されるのは表出の形だ。「人柄」はいろいろあってよい。そう考えたら、知的障害者自閉症児とのやりとりを「演じる」というのは、自己表現のトレーニングをしているにも等しい。いつでも誰にでも演じるのが当然になれば、もうそれは人格だ。その境地までいつか到達できるのだろうか。