泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

権力より客観的評価

 保護者と話しながら、ふと整理がついたようなこと。
 子どものことで教員に「わかってもらえない」と行き詰まったとき、つい「権力」に頼りたくなって、「管理職」「教育委員会」などに頼りたくなるけれど、「上から叩いてもらおう」で成功するのはレアケースであって、だいたいかえってこじれる。上にチクられたと思う教員は、すねる。意固地になる。
 それよりは、子どもについての「客観的な評価」を示せる者に関与を促したほうが、ずっとうまくいきやすい。もちろん厳密に言えば、客観的って何だ、という難しい話になるのだけれど、ここではひとまず子どもに「何ができて、何ができないか」「何がわかって、何がわかっていないか」というデータだと思ってもらえればいい。親が「それは無理です」「支援してください」と言って、教員が「いや、頑張ればできるはずだ」「普通級では、これができなければ困る」というようなやりとりはどこまでも平行線。不毛だ。「私はこう思う」という衝突にしてはならない。
 校内でそのようなアセスメントの力量をもつ者と出会えれば一番よいものの、そんなに簡単にいかないことのほうが多い(特に地域の小中学校は)。すると戦略的には、外部から学校に介入できてかつデータに基づいて物を言える人を見つけていくことになる。
 このあたりの地域だと子どもの主治医か、地域に対してセンター機能を発揮する場としての特別支援学校が頼り。それでスムーズに事が運ぶケースが増えつつある。ただ、学校の対応を恒久的に変えていきたいならば、やはり指導計画に反映させるところまでもっていかないと、その場かぎりの反省で終わってしまいかねない。介入する人は自分の評価や提案を言いっぱなしで終わるのではなく、そこまで意識すべし。
 今日は、学齢期の発達障害児向けの療育資源について、たくさん要望を聞くばかりだった。学校がもう少し頑張ってくれれば、ここまで福祉に期待が寄せられることはないと思う。がんばれ、学校。