泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「足りない」彼女に救われる、ということ

 どこかでお試し版の第一話だけを読んで「ふーん」と思うだけで済ませてしまっていた。考えてみれば、「このマンガがすごい!」の一位をとった作品がそんな他愛もない話のまま終わるはずがない。最後まで読まなければいけないマンガだった。

 ちーちゃんは中学2年生の女の子だ。おそらく「知的障害」の。
 かぎかっこをわざわざつけたのにはもちろん理由があって、作品中でそのような言葉は一度も出てこない。割り算ができなくたって、漢字が読めなくたって、空気が読めなくたって、彼女は友人や家族に囲まれながら、明るく日常を送れている。もし医療機関に行けば、きっと診断名はつくだろうが、そのような必要は周囲の誰も感じていないようだ。
 ちーちゃんは、知恵や考えが「足らない」。そして、経済的にも裕福ではなく、欲しいものは簡単に手に入らない。お金もまた「足らない」。
 真っ直ぐで「足らない」彼女を中心にした物語は、思春期の中学生たちの姿も描きながら、一話完結のコメディ路線で当初ほのぼのと進んでいく。ちーちゃんと最も親しいのはナツ。ちーちゃんと同じ団地に暮らす彼女もまた裕福ではなく、「足らない」と感じている。勉強もできるほうではない。恋人がいる同級生や優秀な同級生に、取り残されていくような不安をかき消しながら、生きている。
 中盤にちーちゃんが悪気もなく事件を起こす。「罪」を犯す。そこに多くの登場人物が巻き込まれる。弁護しようとした自分の過ちを認める者。悪ぶっているが、実は優しい者。お互いを認め合えるようになり、関係性も変わっていく。それらの同級生たちの変化はポジティブなものであるように見える。ただひとり、ちーちゃんと自分の罪を隠そうとしたナツを除いては。
 事件をきっかけに露呈するそれぞれの「足らなさ」と「満たし方」。「足らなさ」と「満たし方」を知ることでお互いを認め合い、関係が深まっていく中で、ナツだけは変わることができない。彼女だけは「足らなさ」の満たし方がわからないままでいる。そして、ますます劣等感と孤独感を深めてゆく。
 次第にちーちゃんまでも失うことをおそれて絶望していくナツ。自分に対して変わらぬ姿を見せてくれる「足らない」ちーちゃんにまた救われて、物語は終わる。これはハッピーエンドなのか。バッドエンドなのか。そして、「足らない」人々を支援してきた自分は、この物語から何を考えたらよいのだろうか。 
 ちーちゃんは自分の足らなさを満たそうと、欲望にまっすぐ動き続けている。彼女はその点において大きく変わっていないのだと思う。ただ、動き方に少しだけ知恵が伴ってきて、その方法はときに大きく誤る。「事件」はその結果だ。
 一方で、ナツは、ちーちゃんといっしょにいることで、「足らなさ」を痛感せずに済んできた。「足らなさ」を強く自覚するようになっても、ナツは動けない。自分の足らなさばかりが目に見え、満たし方もわからない。そんなナツがまた自分の前に現れたちーちゃんに救われることで、物語はナツのこれからに暗い影を落として終わっているように見えてしまう。
 けれども、どのようなタイミングでちーちゃんとナツは再び出会えたのか、を読めば、ナツもまた「満たし方」のきっかけをつかみかけているのだと思う。これ以上書くのはよくない気がするので(ここまででも十分なネタバレではあるが)、読んでもらうほうがよい。彼女は今の自分にとって必要なものを「求められる」ようになりかけているのだ。それがいくらか不健全に見えるものであっても。求められなければ、満たされない。
 自分を認めてくれる「何か」が知的障害と思しきちーちゃんであり、彼女の必要を叫べることが救いとなるというのは、残酷な話なのだろうか。しばしば知的障害は「純粋さ」を言われ、価値を与えられる。そこには、いくらかの羨みや優越感も含まれるのかもしれない。
 しかし、周囲が大きく変わりゆく中で、その変化がまた周囲の抱える「足らなさ」によるものであると思えず(他者を認められず)、自分自身の足らなさもどう満たしてよいのかわからないうちは、変わらずにあり続けてかつ自己を認めてくれるような何かが支えとして必要なのだと思う。ハッピーエンドでもバッドエンドでもない。ただ、人生とは、そういうものだということ。それもまたひとつの満たし方であるということ。
 知的障害の人々の支援に長く関わっていると、自尊心の低さを知的障害の人たちに救われているのではないか、と思える人たちに多く出会う。思い返せば、学生のころの自分もそうだったのではないか、という気もする。それはとても自分本位な関係性の築き方であって、あまりほめられた話ではないのだろう。
 それでも、私たちはまず他人から認められる経験をして、自分のことを認めてくれる他人を失うまいと正しく「求められる」ようになって、というプロセスの中で、他人も自分も大事にできるようになっていくのだろうと思う。知的障害の人々との関わりに救われるというのはある種の人生を歩んでこざるをえなかった者にとって自然なことであり、非難されることでもないのではないか。そして、自分の欲望に忠実に行動できる人といっしょに過ごす中で「満たし方」もまた学んでいける。
 このときの「知的障害」の部分には、他のさまざまな「社会的弱者」が代入可能であり、支援はしばしば「偽善」扱いされる。しかし、まず自分の価値を認めてくれる大切な人がいる、というところからはじめないと、他人を求め、他人を大切にできるようにはならないだろう。だから、利他的な行為を実は利己的であると言って卑屈なままでいるよりも、他人への支援に救われることはずっとよい。
 昨年のマンガ賞は障害関連の作品が目立った。ちなみに『五色の舟』も超おすすめ(『聲の形』は最後まで買えていないので、評価保留で)。