泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

力尽きた彼と、逆算しない支援

 年の瀬も押し迫っていた頃の話。
 朝、見知らぬ番号から着信がある。出てみると、以前に自分が支援をしていた子どもの身内だと相手は名乗る。次の言葉が出てくるまでのわずかな時間にも嫌な予感はあった。
 子どもが昨日、亡くなったと聞かされる。
 言葉を失う。
 彼は、進行性の障害をもっていた。
 知的障害や自閉症の子どもを主に支援している自分たちであるが、田舎というのはそんなにたくさんの支援者、事業所があるわけではない。どんな障害の子どもでも可能な限りの支援をする。彼は出会ったときからすでに自分で歩くことができなくなっていて、支援の中でいわゆる身体介護の占めるウェイトが重かった。けれど、好奇心が旺盛で、知的な発達にも少しの特性があって、支援者もいっしょになって楽しめることが多い子だった。
 だんだんと体を思うように動かせなくなり、頻繁に検査入院を求められたりもするのに、嘆き悲しむ様子を見せない彼が少し不思議だった。どんなふうに自分の身体の変化を受けとめているのか本人に聞いてみたくもあったけれど、なんとなく聞けなかった。家族にもうまく聞けなかった。知的な発達の特性ゆえにあまり重く受け止めずに済んでいたのかもしれないが、どこかでは吐き出していたのかもしれない。
 自分が最後に支援したのは、自力での呼吸が少しずつ難しくなってきた頃だったと思う。そのような状況でも、前向きな彼は、学校を卒業すると新たな生活を望み、家族から少し距離を置いた生活を選んだ。自宅からも大学に通えるけれどひとり暮らしをはじめてみた大学生みたいなものだ。それから自分たちが直接に支援をする機会は無くなり、他の事業所の支援を受けながら、暮らしていた。
 あまりの急な話に喪失感を欠いたまま、彼の暮らしていた部屋へ行く。悲しみの中も気丈にふるまうご家族に迎えられる。ベッドに横たわる彼の姿は、いつもと変わらぬようにも見えた。車いすでも暮らしやすいように広く作られた部屋は、彼の趣味の品物にあふれ、提供されてきた支援の跡がまだたくさん残っていた。
 「入所」でも「親もとでの暮らし」とも違う生活を送るための支援はまだあまり一般的になっていない。とりわけまだ彼のように若い人に対しては。しかし、彼の人生がずいぶん早回しで進んでいくとわかっていたから、周囲の人たちが支援を早回しにしたわけではなかった。母親から彼の近況を聞いて、障害の進行が彼を悪い意味で特別に扱わせることには最後までならなかったのだと思った。彼は年齢相応の暮らしの形を目指しただけである。
 限りある人生だから、と周囲が通常よりも多くのものを彼に早くたくさん与えようとすることだってできたはずだ。でも、そうはならなかった。彼が何かを求めても無条件に与えられることはなく、彼に求められるものもまたあったし、彼は最後まで努力を欠かさずに生きた。なぜだろうか。
 彼の命と暮らしの尊厳を認めればこそ、家族や支援者が見つめるのは「今」しかなかったのではないか。
 我々の人生は有限であって、最期からの逆算がおよそできてしまう。進行性の障害をもつということは、ゴールテープを切るまでの時間がずいぶん短くなるということだ。「人生プラン」をそれに合わせて考えたくもなる。
 それでも「今」を精一杯生きる彼に対して、誰かがゴール設定を変えてしまうことはひどく不誠実な態度だ。残された時間を理由にして与えられるものが変われば、何かが失われる。それが何であるのかは、適切な表現がいま浮かばない。「誇り」という言葉がやっと浮かんだが、しっくりとはこない。
 支援は何かと「目標」と「計画」を求められる時代になった。サービス利用計画、個別支援計画、個別指導計画、個別教育支援計画。これから多くの障害をもつ子どもは最低でもこの4つの計画とそれぞれに定められた目標とともに生きなければならなくなってしまった(制度上)。事業所の管理責任者向けの研修では、支援計画を立てる練習に多くの時間が割かれ、子どもについての膨大な情報の中からニーズと支援目標を探り当てることが求められる。「計画」がやたらと求められる社会的背景も怪しいものだけれど、嘆いてばかりもいられない。
 生活を支える計画や目標に「今」の子どもの願いからはずれた何かが基準として持ち込まれるとき、今の子どもたちのひたむきな生きざまが否定されかねないことの怖さを、支援者も家族も知っておかねばならないのだろう。
 最近はブログを更新する元気もあまりないのだけれど、彼の旅立ちにあたって何か考えて書き留めておきたかった。ずっと忘れない。合掌。