泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

障害特性を「たとえる」

 3年も前に出ていた本。図書館で偶然見つけた。

自閉症・ADHDの友だち (文研じゅべにーる・ノンフィクション)

自閉症・ADHDの友だち (文研じゅべにーる・ノンフィクション)

 やさしい文章で、活字も大きく、振り仮名もたくさん。小中学生くらいをターゲットに書かれた本だと思うけれど、大学生などにも薦められる。
 著者は特別支援学校の先生。ふたりの生徒について、それぞれ担任したときの出来事や教育・支援のエピソードを先生目線の一人称で物語としてまとめた内容。出会ってから、少しずつ子どもについての理解を深めながら、支援方法を試したり、予期しないことが起きたり…、というプロセスは、自閉症児などと新しく関わりはじめた学生などが、共感的に読みやすいのではないかと思う。
 「たとえ」がたくさん出てくる。子どもたちのわかりにくい行動も、理由を考えたら特別でなく「みんなと同じ」である、と伝えるために「たとえる」ことが有効なときがある。特別支援教育障害福祉は、特性や必要な支援を子どもの保護者や世の中に伝える必要に迫られることがあるから、「障害児」の目線からはどう見えているのか、いくつかの伝え方のバリエーションをもっておけたほうがよい。「(障害をもたない)私たちに当てはめると…」という説明はリスクを伴うけれど、納得されやすいとも思う。
 それは「たとえば、私たちも…」という説明がうまくできない部分について社会的理解を得られにくいということの裏返しでもある。この本で言うと、ADHD児の話は自閉症児の話と比べて「たとえ」が少ない。情動のコントロールだとか、衝動性だとか、「私たち」の延長として説明できないこともないが、「そうだったのか!」とならないぶん、支援を促すものにはなりにくい気がする。悩ましい。
 以下、引用。

わたしたちだって、わからない言葉をずっと聞くのは大変です。たとえば、外国に行って、現地の人に聞いたこともない外国語で話されたときと同じなのです。(29ページ)

健二くんにとって、タイマーはいつも楽しいことを止めさせられるものになっていたのです。いくら「これだけで終わり」ということがわかっても、それは大人がかってにきめた時間です。もっと見たかったのに!と思うことだってあるでしょう。わたしたちだって、見たいドラマの最後のいいところで、時間がきたからといってテレビを消されたらおこるでしょう。(66〜67ページ)

だれだって、大好きなものが目の前にあったら興奮すると思います。お店に行って大好きなオモチャやゲームがあったら「欲しい」と思うでしょう。お店に行かなければそんなに欲しいとは思わないかもしれません。でも目の前にあると「欲しい」と思うのはあたり前です。でも、誕生日に買ってもらえるから、あとこれだけ待てば手に入る、とわかれば安心して待てるでしょう。(71ページ)

 

言葉が通じない外国で、同じような年令の子どもたちの集団の中にサッカーが得意なあなたがいるとします。わからない言葉がとびかい、何を話しているのか、何を話しかけられているのかわかりません。そんなとき、ある子がサッカーボールを持ってきて、サッカーがはじまりました。いっしょにしようと手まねきされたら、あなたはサッカーに参加するでしょう。そして、サッカーを通して仲良しになれるかも知れません。それと同じようなことです。物や活動には、人と人を結びつける力があるのです。(78ページ)

したいけど、がまんしよう、という気持ちになるには何が必要なのでしょう? たとえば、夏休みの宿題を考えてみると、宿題をせずに遊びたいという気持ちは、みんなもあるでしょう。そんなとき、がまんするには次のことを自分で確認すればよいのです。
1.宿題の量が決まっていて、それがわかっている。(はっきりしている。)
2.宿題をしたら先生や親からほめられる。
3.宿題をしないと先生や親からしかられる。
明くんも同じで数。がまんするためには次のことがポイントなのです。
1.がまんすることやルールがはっきりしていてわかっている。
2.がまんしたら良いことがある。
3.がまんしないと自分にとっていやなことがある。(110〜111ページ)

ちなみにこれまで読んだものの中で「たとえ」がうまいなあ、と最も感じた本はこれ。

自閉症の特性理解と支援―TEACCHに学びながら

自閉症の特性理解と支援―TEACCHに学びながら