泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

2度目の人生を簡単に振り返ってみる

 自分は一浪していて、浪人生活の終わり頃にいちど精神的に死んだ。
 あまり深く思い出したくはないが、ゼロから社会や他人との向き合い方を変えなければ、生きていけないことがわかった。それから生き直しが始まる。ほどなくして人さまの生活を支える機会に恵まれ、本当にこれが自分の進むべき道なのだろうかと自問自答しながら20代の前半を過ごした。
 自分がやらなければ誰もやろうとしないことがあると思い込めるようになったのは20代後半ぐらいだったろうか。自分のもつ能力を客観的に見つめることよりも、役に立てていると思えることが大事だった。アカデミックな方面でも自分なりの役割は発揮できそうに思えたが、社会資源を作ってほしいという求めのほうが切実に感じられた。いつか大学に戻るのもよいと思いながら、20代はすべてを支援に捧げようとNPOを作ったのがもう11年前である。
 自分にできることは目いっぱいやってきたと思う。一度は生きられなくなってしまったくらいに社会との相性はよくない。生きづらい人々を支えていくことが自分自身の生きづらさを解消していくことでもあったのだろう。自分が生きるためにも、他人を生かすためにも身近な社会を変えていかなければいけなかった。障害児にもその家族にも成り代わることはできない。ただひとりひとりの人間の多様さを受けとめきれない社会に対峙させられているという点では同じだ。共感というのは、さまざまな水準で育まれうる。
 意欲と情熱だけで築ける信頼関係がたくさんあった。必要に迫られてはじめた支援の「専門性」に自信なんて持てない。地域の中でひたすら動き回って、頭を下げてまわって、顔と名前が知られていくだけでもいろいろ実現に近づいていった。当事者や行政職員にどれほど助けてもらっただろう。ひとりでできることなんて、ほとんどなかった。
 それから障害児をとりまく環境は大きく変わった。どう変わったのかはブログやツイッターで繰り返し書いてきたので、もう書かない。気持ちでやる支援に人々が気持ちで応えていくような時代は終わりつつある。そもそも自分の叫ぶ理念に皆が共感していたわけでもなく、他に支えようとする者がいないのだから、そいつを励ます以外になかったのかもしれない。
 新たな理念が台頭してきたわけでも、必要なスキルを備えた者が現れてきたわけでもない。その点では何も変わっていない。変わりつつあるのは「数」だけだ。しかし、数の変動に適応しようとして社会に求められる質的なエネルギーの転換は大きい。自分も例外ではない。組織の成長もあいまって、考えなければいけないことが増えた。
 たくさんのことを同時に考えるのが苦手で、人とコミュニケーションをとるのも苦手な自分がひとりで悩むのを横目で見ながら、職員たちは次々と結婚していった。組織とは支援のためにあるだけでなく、働く者のためにもあるのだという当たり前の事実がつきつけられていく。社会を変えるよりも、変わりゆく社会と組織にどう向き合うのかを考えねばならなくなった。そして、自分自身の人生はと言えば、孤立と自他への失望とで前にも後ろにも動けなくなっていく。
 今日は2度目の19歳を迎える日だ。一度目の19歳はもっと深い絶望の中にいたが、翌月には新しい暮らしをはじめなければならなかった。40歳が近づく今、もう一度ゼロからやりなおすのは難しく、リセットできるものなんてほとんどない。せめて元気の出し方を思い出せないだろうか。