泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

ドラマを創作するときの自由

 例の野島伸司監修ドラマ。全体に児童福祉関係者からの評価はやはり厳しい様子。
 昔からテレビドラマなんてほとんど見ないけれど(「倍返し」も「じぇじぇじぇ」も見ていない)、野島脚本の『聖者の行進』は見ていた。1998年。知的障害の人たちに学生ボランティアとして関わり始めて、3年くらい経った頃だったので。周囲の学生も多くが視聴していたと思う。
 地域からは障害者雇用に熱心な名士として理解されている社長が、実は知的障害者を劣悪な環境で働かせ、暴力や性的虐待を繰り返していて、という物語。センセーショナルなドラマとして話題にはなったけれど、障害福祉関係者から強く問題視されていた記憶はない(少なくとも「間違ったことを伝えるな」「誤解を招く」というような批判はなかったのではないか)。
 件のドラマは、この「工場」部分が「児童養護施設」に置き換わったフィクションと考えれば、施設の描き方は問題じゃないと言えるだろうか。『聖者の行進』に対して、障害者雇用に熱心な会社の社長が「このドラマの障害者雇用の描き方は誤解を招く」と言わなかったではないか、と擁護できるだろうか。それは無理だ。
 『聖者の行進』は全くひどい話で、当時も「見ていられない」人がいた。暴力表現に視聴者からの抗議があり、スポンサーが降りたりもしたらしい。しかし、もとになっている「実話」はもっとひどかった。いわゆる「水戸事件」である。障害者虐待事件として、関係者にはよく知られている。裁判の結果まで含めて、ドラマよりもずっと悲惨である。
 社会の中にある暴力や差別や不平等を伝えるために必要なのは、実際の事件を誇張することではなく、わが身を直接には重ねにくい人々への想像力を視聴者の中に膨らませることなのだろうと思う。『聖者の行進』において、それが成功したのかどうかはわからないし、当時の自分はその暴力シーンの描写以上に、知的障害者を「聖者」扱いすることへの疑問や知的障害者の恋愛を描きかけて「相手の死」に逃げたことへの不満を抱いたりもした。それでも「こんなドラマ流すべきではない」とは思わなかった。今回のドラマについて、そもそも「間違っている」「現実にない」描写をしてしまったのが何より罪深い、と思う(障害者施設はしばしばひどい虐待事例があるため、ドラマでどのように描かれても残念ながら「現実にない」とは言えない。堂々と批判ができる「児童養護施設」関係者が少しうらやましくもある)。
 ドラマでもドキュメンタリーでも同じように描きたいものを描くことはできるのだろう。あえてドラマで表現するのはなぜだろうか。ドラマでしか表現できないものとは何だろうか。
 物語を自分たちでゼロから考えてよいならば、現実には考えにくい出来事の創造や誇張を通じて何かを訴えるよりも、現実と同程度かそれ以下のものを「深く」視聴者に受け止めさせるための仕掛けを好きなだけ自由に組み込めばよいのに、と素人である自分は思う。
 多くの「生きづらさ」とはそびえたつ高い壁ではなく、絡まり合って解けない糸玉のようなもので、そのままだと視聴者に見せる画としては物足らないかもしれない。しかし、その絡まりのプロセスをいかに切実に見せるのかは、脚本や演出の可能性として開かれているはずだ。ドラマを作る人たちにとって、そのような「自由」は魅力がないのだろうか。だとしたら、あとは次々と高い壁を立てていく方向にしか道はないだろう。
 単なる勉強不足や粗雑さの現れなら、もっと勉強しろよで済むけど。どうもそれだけには感じられないので書いた。