泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

例の話題からぼんやりと考えていたこと

 乙武さんの件に関連づけて何か書けば、多くの人に読んでもらえるのだろうとは思ったが、どうもそのような気になれなかった。少し疲れているからであろうか。あるいは論点が定めづらいからであろうか。
 ぼんやりと考えていたのは、「差別」という事象は、まず差別する主体があって、その責任が問われるかのように思われているけれど、そうではないよなあ、ということ。この点を踏まえておかないと「差別」というのは個人に帰責させる意味に捉えられてしまうし、そこから必然的に反論を試みようとする人も増える。もちろんこの言葉を使わずに、きちんと「改善されるべき(あるいは改善されるのは好ましい)状況」がきちんと指摘されるならばそれでいい。でも、他にあまり手ごろな言葉がないのも事実。
 そして、障害当事者が一般的なサービス等にクレームをつけると、明示的に「差別」という言葉を使うことが無くても、漠然と「差別であるかどうか」という観点から評価されやすいとも感じた。そして「それが差別であると認められるならば、差別した者が悪く」「それが差別とは認められないならば、クレームつけたほうが横暴」という二分法に陥りやすいのだな、とも。
 今回の件はいろいろ話が複雑すぎるので、議論の題材としては使いにくいと思う。ただ、皆が享受できるものについて、特定の集団だけが享受できないという状況があり、それが告発された場合、どこに責任を求めるべきか、についての議論につながるとよい。