泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

別れの支援

 朝から12時間にわたる支援。
 葬儀場でいつもと違う食事をとり、何かを3回つまんではパラパラと石の上にかける儀式を模倣し、動かなくなった故人の側に花を飾り、最後には白くて大小さまざまな何かを拾って壺に入れるように言われ、帰宅するとあまり会ったことがない人々ばかりでの小さな宴がはじまる一日に、重度の知的障害かつ自閉症の彼が何を感じているのかはわからない。「きっと彼なりによくわかっている」と話す関係者への嫌味でもなく、謙遜でもなく、本当にわからない。いつもの月曜日とはかけ離れたスケジュールにも思いのほか落ち着いている。「死」の意味が理解できているから穏やかに過ごせているのか、これから次第に失われたものの大きさを把握して苦悩するのか。それも今はわからない。
 葬儀場には面識のある方が勤めていて、つきっきりでサポートをしてくださる。座る場所や待ち時間の過ごし方など相談に乗っていただき、運転手もしてくださる。ヘルパーである自分自身が故人とゆっくりお別れができるようにも配慮してくださる。彼もまた当事者家族であり、自らを故人と重ね合わせて、我が子ならばどのような受け止め方をするのだろうかと話す。そして、支援者が見つからずに葬儀に参列できなかったご遺族の例などを教えてくださる。通夜の日も告別式の日も支援者が確保できるのは「恵まれて」いるのだろうか(別事業所で、両日とも担当職員は休日返上であったけど)。一生に一度しかない別れであるのに。
 家族も含めて、今日明日のことに精一杯だった日々はもうすぐ終わる。家族がひとり少なくなった暮らしはどんなものになるのか、まだみんな見通せていない。きっと故人の存在の大きさを思い知ることになるのだろう。
 式の最中に指先がせわしなく動き続けていたので、数珠を渡したら、ぐっと落ち着いた。きっと感覚ニーズと関わることだが、このような事象に宗教的な意味づけをしたがる人もいるだろう、と考えたのは余談。