泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「いじめる側」と「いじめられる側」の距離について

 ずっと昔から、いじめへの対応策が様々なレベルで提起されている。「逃げろ」と言うこともあるし、学校制度そのものの変容を唱えるものもある。子どもの「耐性」を鍛えるのが大好きな困ったおじいちゃんたちもいる。いじめる側を断罪するにとどまらず、晒しあげる人々もいる。自分の立場からは、また少し違うことが言えそうな気がした。
 「なぜいじめるのか?」という問いに対して誰もが納得できるような回答があるとは思わないが、まずは他人に何かしらの差異を見出して標的にすることが「快」となり、さらなる暴力へと発展していくことは多いのだろうと思う。
 差異をどうってことなく受け流すことができないとか、前向きに受け止めることができないという性質は、その者自身の生きづらさに結びつきやすいものである。自分が仕事で関わる知的障害や発達障害をもつ子どもたちは多くが生きづらい。彼らにとって、社会は人間は多くの意味不明な差異に満ちており、過剰に複雑でどう関わっていいのかわからないものである。しかし、彼らは多くの場合「いじめられる」側にまわる。
 一方で「みんなと同じようにやれない子」を過度に非難する子どもは、かなり低い年齢でもいる。それは「いじめ」ではなく、ただ「差異」への強烈な違和感であって、陰湿さもないが、ときに攻撃的な姿勢も現れる。極端な言い方をすれば、「差異」を「誤り」として許すことができない。責められる側も苦しいが、小さなことに囚われて相手を責めなければ気がすまない側もまた不自由だ。
 近年では「いじめる」側と「いじめられる」側も可変的であるとか、「誰もがいじめられうる」とか言われることもあったように思う。どちらの立場になるのかは「偶然」であると強調すれば、皆が当事者になりうるのだという危機意識も生まれる。実際に現場はそのような状況なのかもしれない。いじめ研究を参照してこれを書いているわけでもない。
 ただ、「いじめる」側と「いじめられる」側の距離の近さは「偶然」によって説明されるべきものばかりではなく、もともとは同じような生きづらさを抱えた者が何かの要因によって「いじめる」側(あるいは「いじめられる」側)にまわった、という観点もありうるのではないか、と思う。
 その両者を分かつ要因が何であるのかはわからない。「差異」に対する態度の違いはある気がするが、うまくは表現できない。何でも個人の発達上の特性に結びつけるのは危うさもあることを付け加えた上で、大人にできることがもっと他にもないだろうか、と考えるきっかけになれば、と思って、書いた。