泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「パターン」という意思の尊重

 過去の彼を見てきた経験から「こっちに行ったほうがきっと楽しい」と思うが、彼はそれを選ばない。
 天候不順が続き、しばらく行けなかった。一度行けば40分ぐらいは楽しめる。しかし、前回も行ったところに行きたがる。そこはつい昨日も家族と行っているようだ。滞在時間は5分ぐらいか。
 「行きたい」のか「行かねばならない」のか「行くのが当然」なのか「ただなんとなく」のか、これらが複合しているのか。そもそもこのような意思の区分自体に意味がないのか。「忘れた」はおそらく無いと思うが…、それも絶対にないとまでは言い切れない。
 自閉症児の支援において、俗に「パターン」と呼ばれ、さらには「パターンを崩す」などとも表現されたりする。本人の意思を受け止めずに「こっちに行くぞ」と支援者が押し切れば「パターンは崩れる」かもしれない。そもそもの選択肢の中に含んでいなければ、選びようがないかもしれない。
 しかし、たとえ結果として本人を含む皆が満足できたとしても、そのような方法をしてしまえばいったい「自己決定」「利用者主体」とは何か、となる。子どもならば、大人の決定に従うことは一般的にあるだろう。大人だって、人の助言を聞いて考えを改めることはあるだろう。しかし、それもどこからどこまで期待されるべきものなのか。
 答えは、出ない。そしてある日、突然に「パターン」は変わったりもする。正解のわからないまま、また日常は続く。