泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「想像力」が足らないから生きづらいのか?

 少し久しぶりに会ったその子は、こちらの口調がややきつくなると即座に「ごめんなさい」と言い、続けて「『いいよ』って言って」とも言うようになっていた。さらには何かを間違えたことに気がつくと、こちらからは何も言っていないのに謝ってくる。
 この年度の変わり目にいろいろとあったのだろう。この変化に「成長」を感じるとることもできる。それでも、切ない。
 どうして怒られているのかわからないままに注意や叱責を受け、とりあえずその場をおさめるために謝る。しかし、相手の怒りがおさまっているのかどうかがわからない。不安なので、もう怒っていないかどうかを確認する。
 子どもの頃、自分もよく親との間でこんなやりとりをしていた。イライラした相手の気持ちがおさまっているかどうかが不安で仕方がなかった。それが「発達障害」由来なのかどうかはわからないし、そんな区別に意味があるのかどうかも大いに疑う。原因論をたどってみたところで、不安が消せるわけでもない。今でも自分は他人の顔色をひどく気にするほうだと思う。
 「もう怒ってない」なんて不機嫌そうに言われて、誰が安心できるだろうか。その言い方がまた引っかかるのだ。無表情で淡々と言われるのも、不気味だ。気持ちを押し殺しているんじゃないかと思えて、信用できない。
 ここでもやもやしたまま耐えられない子どもは、はっきりした確認をとろうとして、繰り返し質問をする。そして、ますます相手を苛立たせる。悪循環である。
 多くの人は、大人になるにつれて、相手の怒りについてわざわざ確認をとらなくなるだろう。なぜか。
 相手の気持ちが読み取れるようになったのか。どうやって? 顔が怒ってないから、もう怒ってないと言えるだろうか。そんな自分の判断が正しいって自信はどこから来るのだろう。単にうまくやり過ごせるようになっただけではないのか。いつか怒りはおさまる、とか、怒った人とは少し距離をおこう、とか。
 自閉症児は「想像力の障害」があると言われる。しかし、「想像力」が働かないから困るのか、働きすぎるから困るのか。きっと「バランスが大事」という曖昧な落としどころにみんな納得するのだろうが、これはずるい。結局のところ「定型発達」のほうがトータルで優れているという説明をして、大事なポイントを隠してしまうことになる。
 優れた「社会性」には、きっと多くの「欠如」が潜在している。相手の気持ちなんてわかり過ぎないほうがきっと生きやすい。