泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

どっちが簡単なのだろうか

 法人の学生ボランティアスタッフたちは年度が変わり、大学内で1回生の新人スタッフ募集をしている。ひとりの学生が事務所にやってきて「ボランティア希望の留学生と話して、とても盛り上がった」という話を職員にしている。

学生「すごく日本語がうまかった。たまに電子辞書を見てたけれど。」
職員「へー、日本に来て何年の人なの?」
学生「知らない。」


学生「○○○(アルファベット3文字)っていうサークルも入ってるんだって。」
職員「○○○って何?」
学生「知らない。国際系じゃない?」


職員「その子はなんでボランティアしようと思ったの?」
学生「友だちの○○くんが来るからだって。」


 大事なことには何も踏み込まず、ボランティアコーディネーションにとって重要な情報は何ひとつ得られないまま、とにかく「盛り上がった」ようである。いったい彼にとってコミュニケーションの目的とはいかなるものであるのだろうか。そして、自分自身の学生時代はどうだったろうか、と思い返す。「コミュ障」の自分でも、もう少しはましだった、はず。
 どうでもいい他愛もない話で盛り上がれるコミュ力と、目的的な情報のやりとりができるコミュ力。前者を持っているのならば、後者はよりたやすいことのような気がするのだけれど、違うのだろうか。