泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

知的障害児の支援者が『日本語教師』の仕事を知って

 自分は同じ日本人でありながら言葉が伝わりにくい子どもたちとよく接している。そこでは「短く話すことが大事」「やさしい言葉で話すことが大事」などとよく言われる。しかし、これらはけっこう曖昧な指示である。
 具体的には何を意識して話しかけたら、わかりやすいのか。改めて考えることはなかった。きっと知的障害と関わる支援者の多くは、そんなもの当たり前のようにできていると思っている。あえて教わる機会もない。そんな中で、有名なマンガの3巻を読んだ。

日本人の知らない日本語3  祝! 卒業編

日本人の知らない日本語3 祝! 卒業編

 「外国人にわかりやすい日本語」という話の中で、こんなエピソードが出てくる。
 日本語学校に通う外国人女性が倒れ、救急車で運ばれることになった。学校の先生が付き添うことになり、病院に到着。医師は付き添いの先生に「通訳」をお願いするが、先生は日本語で患者に話しかける。「どこが痛いですか?」「朝、何を食べましたか」。
医師「ちょっと待ってください。この方、日本語通じるんですか?」
先生「ハイ」
医師「じゃあ、あなたいらないじゃないですか。私が直接話します」
 しかし、医師が直接に話すと患者には通じない。結局、医師は自分でのやりとりをあきらめ、先生にやりとりをお願いすることになる。先生は「どや顔」。
 著者は「先生の日本語のほうがわかりやすかったのはなぜか」への答えは、「日本語で日本語を伝えるってどうやるの?という素朴な疑問」への答えでもあると言う。その答えは「相手が知っている文型と語彙を使って話す」。学生がそれまでに教科書で習った文法だけで授業も雑談も話すらしい。「それが仕事なので」。
 さて、はたして自分たちはそこまで相手の言葉への習熟度について意識をしながら、日々子どもと話せているだろうか、と思うと、かなり疑わしい。支援しながらのひとりごとのようなつぶやきも含めて。余計なことを山ほど言っている。
 自分たちは「まだ習っていない言葉を使うと質問攻めにあう」経験がそれほどない。「その言葉の意味がわからない」と言ってもらえない。そもそも多くの知的障害をもつ子どもたちは、教科書を使って日本語文法を学んでいるわけでもない(障害が重度になると、特に)。だから、自分たちが反省する機会も少なくなる。
 つい先日、子どもとメールでやりとりすることがあり、かなりの時間をかけて文面を考えたときにも、日本語の難解さを自覚させられた。「100%相手に伝わるように」コミュニケーションをとろうとすると、かなり言葉は選び抜かれる。そうした厳選作業が、話し言葉でのコミュニケーションの中でもっと求められるべきなのだろう。
 著者は「日本語教師でなくてもすぐ使える『外国人にわかりやすい日本語』のコツ」として4点をあげる。
1.『です』『ます』で話す
 「ここをグッと押せばいいのよ」→「ここを押します」
2.漢語ではなく和語を使う
 「腹痛」→「お腹が痛い」
 「朝食」→「朝ごはん」
3.過度な敬語は使わない
 「恐れ入りますがお名前をご記入頂けますか」→「お名前を書いてください」
4.文章は短く
 「場所が変わったのであとで地図を渡したいんですけど今日って何時までいますか」→「場所が変わりました」「あとで地図を渡します」「今日は何時までいますか」
 たぶん、このような「誰でも使える」程度のコツは自分も心得られていると思うけれど、プロの支援者としては前述した日本語学校の先生のようにもっと「教科書のページ数(象徴的な意味で)」を意識したコミュニケーションを努力しなければいけないよな、と深く反省をした。一般的な読者も「外国人」の部分を「子ども」や「障害者」に置き換えたりして読んでもらえたら、うれしい。