泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「官僚抜き」をめぐる二つの立場について

 社会的にはほとんど話題になっていないので、まずは本題に入る前に少しだけ基本的なことの説明をしておく。
 「障害者自立支援法」という法律がある。小泉政権であった平成17年10月に成立したこの法律は当初から多くの批判を浴び、特に障害当事者からは強い反対運動が起きた。たとえば「サービスの利用にかかる自己負担が大きい」というような批判は少しばかり報道でも話題にされたかもしれない。しかし、それは問題点とされたことのほんの一部である。言論上での批判にはとどまらず「法律が障害者の生存権を侵害している」と「自立支援法違憲訴訟」までも各地で起きた。
 そんな中、民主党政権が樹立される。自立支援法に対して、民主党は野党時代からさんざん批判を加えてきていたので、もちろん新政権がこの法律が放置できるはずがない。「違憲訴訟」に対しては「25年8月までに自立支援法を廃止して、新たに総合的な福祉法制を作る」という基本合意をして、和解に至った(参考)。そして、21年12月、今後の障害者制度の集中的な改革を行うとして「障がい者制度改革推進本部」を内閣に設置した(参考)。自民党政権時代ならば招かれなかったであろう当事者団体の長が構成員として数多く名を連ねた。1回目の議事録を読むと、関係者の希望に満ちた「『障害者福祉』はじまったな」的ムードを感じられる。
 さらにこの会議のもとには新たな法律「障害者総合福祉法」を作るための「総合福祉部会」が設置され、「あらゆる」と言っても過言ではないぐらいに多様な当事者および関係者が加わった(参考)。その数なんと55名。部会報告を取りまとめるまでの1年4か月の間に催された部会は18回に及ぶ。作業チームも作られ、新法の理念から具体的なサービス内容まで、実にさまざまな立場からの多角的な議論が行われた。「障害者福祉」というのは世間が考えている以上に多様なニーズと多様な主張をもつ人たちから成り立っている。それを取りまとめる労力は多大なものだったろう。まとめられたものは新法の「骨格提言」とされた。
 その骨格提言から半年近くが経った24年2月8日、久しぶりに19回目の「総合福祉部会」が開催された。そこで厚生労働省から提出されたのが25年4月を施行期日とする「障害者総合福祉法案」である。読んだことがない方は、以下のリンクからどうぞご覧いただきたい。非関係者であっても「なんだか難しそう」なんて思う必要はない。そう思う必要がないことは開いてみれば、すぐにわかる。
厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/sougoufukusi/2012/02/dl/0208-2a01_00.pdf
 まさかの4ページである。
 自分はこの4ページを見て、ツイッターで「予想以上に予想通り」とつぶやいた。厚生労働省から部会の議論を十分に反映させたものが出てくるとは期待しがたい。しかし、自立支援法は「廃止」と決まっているのだし、何も新しさのないものを出せば、何のために議論を重ねてきたのかという批判は免れない。どうするのだろうと思っていた。ところが、出されてきたものは実に堂々とした「ゼロ回答」であった。もちろん変更点はあるけれども、現行法を廃止する必要など全くない程度のわずかな変化に過ぎない。これは間違いなく「自立支援法の微調整」である。
 関係者からは非難の声が上がっている。部会に関わってきた人たちからすれば、こんなバカにされた話はない。しかし、厚生労働省がここまで中身のないものを出せる素地はいったいどこにあったのだろうかと考えたとき、公表から数日が経っても「いったい世の中の何%がこの事態を知っているのだろうか」という程度の話題性しかなく「怒っているのは関係者だけ」とも言える状況で、批判など痛くも痒くもないと厚生労働省は見越していたのではないかとも思う。新聞報道との温度差も大きい。
原則無料化見送り=障害者福祉新法で骨子―厚労省時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120207-00000113-jij-pol
障害者福祉、難病患者にも対象拡大…厚労省案(読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120207-00001103-yom-pol
 いずれも重要な約束を反故にした、というトーンの報道ではない。「まあこんなもんだろう」という記者の意識が出ている。誰も自立支援法違憲訴訟だとか政権公約だとかの重みを覚えちゃいない。今となっては、過去の「自立支援法関連報道」も新たな政権の姿勢を示すものとして象徴的に「消費」されただけだったのかなと思う。いま起きていることは、民主党政権の凋落ぶりを示しているとも言えるが、もはやそんなことは言わなくてもわかっているので、話題性もない。
 さて、ここまでは前置き。そんな中で注目したいのは、少し話題になっている毎日新聞の社説と、それに対する竹端さん(先の「総合福祉部会」委員)の批判記事である。

社説:新障害者制度 凍土の中に芽を見よう
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20120212k0000m070107000c.html

拝啓 毎日新聞社説さま(スルメブログ)
http://www.surume.org/2012/02/post-551.html

 論点は竹端さんのほうから複数提起されているが、両者の姿勢が根本的に食い違うのは、1点に尽きると思う。それを乱暴にまとめてしまえば、毎日社説の主張は「いくら正論であっても官僚抜きで議論すれば何の実行性もない」であり、竹端さんの主張は「ダメなものをダメと言っても聞く耳のない相手と議論なんてできないし、約束を破ったことは許されるものではない」である。
 両方を読んで、自分はどちらかの側を支持する気になれなかった。どちらも間違ったことを言っているとは思えない。それぞれにもっともなことを言っている(ただし、後に示すように分けて考えたほうがよいことをいっしょにしてしまっている気はする)。そして、このようなどっちつかずな態度が自分に許されているのは国政レベルでの議論を傍観する立場にしかないからだとも思う。
 ふたつの主張は自立支援法よりもずっと以前から障害者福祉の運動の中にあったように思う。もっと言えば、我々が「政治」と関わる中でいつでも経験しうることだ。それは地方自治体レベルだって無縁ではない。その意味では、自分も「当事者」となりうる。
 そのときの態度として自分がいずれを選んでいるのかと問われれば、実践的には毎日社説に近いのかもしれない。行政職員と良好な関係を築くことは自分の大事な仕事である。何かを生み出そうとするとき、議員に働きかけたことはない。はっきり言って地方議員は障害福祉について何もわかっていないし、存在意義を何も感じられない。いなくても誰も困らないのではないかという錯覚にさえ陥る。
 地方自治体と関わっていても、「できない」と言われる経験は山ほど積んでいる。もちろん「予算がない」とも言われる。この地域の障害者支援施策を抜本的に考えなおすことを許されるのならば、行政職員なんてひとりも含まないほうが良い議論ができるだろう。自分ならば、まず当事者を集める。次に支援者を集める。現場に近いものばかりだとみんなが前提を疑えなくなっている可能性もあるので、有識者も呼びたい。こうして「推進本部」ができる。極めて合理的だ。
 しかし、この議論の結果が絶望的なほどに行政職員には相手にされないだろう、ということも想像できる。きっと冷めた目で報告を見るのだろう、ということも。「こんなの財務に認められるはずがない」と。自分ならば、実践の一環というよりも調査研究をするような意味づけをして報告をとりまとめる。これが現実化するかどうかは、また別次元の政治プロセスであると考えるようにする。議論する人々にはそんな話を早々としてしまうかもしれない(ただし、総合福祉部会の場合ははじめから法制化を意識していたし、推進会議をわざわざ内閣府に置いたのだから実現可能性と切り離して考えることなんて「仕組み上」ありえなかった、と言われれば、それは確かにそうだとも思う)。おそらく今回の総合福祉部会の人々も「実現」との距離はずっと想定できていたのではないか。
 それでも必要なことを必要と言うのはそれ自体として価値あることだ。はじめから政局への気遣いと妥協にまみれた産物なんて生み出せるはずがなかったろう。だから、総合福祉部会は精一杯のことをした。できる限りのことをした。誰が冷笑できることもない。ただ、もしこの「ゼロ回答」という結果を「予想外」に思いながら運動の次のステージに向かっているのだとしたら、それは少し素朴すぎると思う。むしろ次のステージに向かうために必要なプロセスとして、はじめから折り込み済みの通過点だったと信じたい。
 こうしてもう一度、毎日社説のほうに戻れば、執筆者(おそらく野沢さんだろうし、その点で竹端さんの記事は強い皮肉が込められているわけであるが)が、議論の結果を実現させるための政治プロセスに対しても気を配れと言うならば、総合福祉部会の努力とは衝突しなかっただろう。ところが、この社説はどう読んでも総合福祉部会での議論の過程そのものをもっと政治化すべきだったという主張になってしまっている。だから、この記事は惜しい。あと少しで建設的な提案として受け止められる可能性もありえただろうに。これでは関係者から前向きには読んでもらえない。
 そんなわけで最後の最後まで、どちらの立場にも強くコミットできない内容のエントリになってしまった。このあたりが、自分が運動との関わりを深められない理由であるのだろう。でも、ひとつだけはっきりと言えることがある。「約束を破った」のに「謝りもせずに破っていないかのようなふりをする」のは、いかなる立場からも批判を浴びて当然だ。だから、民主党には言い逃れをする資格がない。