泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

乙武さんの「おおらかな親のほうがよい」について(※少し追記あり)

「もしも、自分が障害のある子を授かったら....みなさんはどう思いますか」・・乙武(h_ototake)さんの連続ツイート
http://togetter.com/li/198030
 このtogetterを読んで「うわー、これはよくない」と思って、寄せられたブックマークコメントを見たら、みんな絶賛(※その後、時間が経って、少しずつ批判的なものも出てきた)。世間的にはこれが「障害があっても人は幸せになれる」という美しい主張としてのみ受けとめられてしまう。自分は、障害児とその家族を支援する者である。無視できない。
 彼のツイートの意図はどうあれ、これは「障害を受容できない保護者は望ましくない」「障害を受容できない保護者の子どもは苦労をする」というメッセージとして機能する。それも「受容できない」責任を保護者自身に帰属させる形で(彼自身は「受容」という言葉を用いていないので、もしかしたら「障害受容」が求められることの暴力性をある程度までは認知しているのかもしれないが、読み手にはそう読み取られないだろう)。「正しいとか正しくないとかじゃない」と付け加えたって「本人にとって、そのほうがラク」と書いてしまえば、「本人にとっての『ラク』を実現できない親」は否定的に捉えられてしまう。
 障害者だから不幸で、健常者だから幸福とは限らない、のはもちろんその通りだ。しかし、それならば、なぜ障害者は「障害者」と呼ばれて、社会的に区別されてきたのか。障害者やその家族が自らを「不幸な者」と位置付けたから「障害者」と呼ばれるようになったわけではあるまい。心身の機能における「障害」が様々な社会的不利を招くことが、歴史的にも目の前の生活の中にも明らかだから「障害」に人は苦悩する。
 もちろん彼はそんなこともわかっていて、差別や偏見やいじめを社会的に存在する「障害」として持ち出すし、社会的な支援の必要性にも終盤で触れる。しかし「これは僕ひとりじゃどうすることもできない」「みんなの理解と手助けを」と書く。ツイートの途中から「自分に何ができるか」にテーマをスライドさせているので、「社会」のほうに深くは踏み込まないままでも自然にバランスよくまとめたように見えてしまう。それでも、冒頭の「親の考え方」に対する主張は薄まらない。「親の考え方」は、社会と切り離されたどこかに置き去られててしまっている。あるいは、人生に対して不動の「前提」化している。幸不幸は「生きてみなけりゃわからない」けれども、親の考え方が悲観的ならば本人も悲観的になることだけは決まっているかのように。
 「障害があったって幸せになれるよ」と言われて、親が自分を責めなくなるなんて、あまりに楽観的なストーリーだ。どれほどの「幸福な事例」を聞かされたって、手厚い支援が受けられたって、わが子は他の誰でもないわが子であり、「もしも」の反実仮想から容易には逃れられずに思いを巡らせ、元気になったり悲嘆したりを繰り返すのが親である。それは自分が支援者として見てきた光景であり、「障害受容」についての多くの研究でも明らかにされてきたことであるはずだ。
 「もっと障害を前向きに捉えようよ、お母さん」という周囲のメッセージは、ときに親を傷つける。それが「善意」によるものであったとしても。だから、このテーマを扱うときは、強調点を間違えてはいけない。善意による暴力を増やさないために。
 自分は支援者であって親ではないから、読み手によっては説得力を欠くかもしれない。障害をもつ子の親の立場からたくさんの人がコメントしてくれることに期待。ここのコメント欄じゃなくてもよいので。

(追記)
ブックマークコメントで教えていただいた。このやりとりはすごい。リアリティも議論の水準も。
http://m.togetter.com/li/198163

(追記2)
 乙武さんが「強者の論理」を振りかざしている、みたいな批判もあるようだが、自分はそう思っていない。個人的な経験や置かれてきた環境を安易に一般化して他人に求められないことは、きっとわかっておられるだろう。きっと『五体不満足』のときから、そんな批判は聞き飽きているはずだ。身体障害と他の障害では同じように言えない部分が出てくることもおそらく理解されている。そもそも最初にわざわざ「身体障害」って書いているし(面倒だったのか、途中からは「障害」だけになっているけれど)。
 自分が言いたかったことは、彼の考え方そのものに問題があるというよりも(彼の主張は「当事者」としての経験から来る率直な感想でもあるので、そこは批判しにくいというのもある)、彼があのように書いてtwitterで発信することの社会的な「受けとめられ方」の問題についてであり、とりわけ「非・当事者」による受けとめられ方を強く危惧したのである。
 親に対して「乙武さんもこう言っていたし、もっとおおらかに前向きに障害を受けとめなさい。それが子どものためにもなる。」というお説教が周囲からなされるならば、それは何のプラスにもならないだろう。むしろ「わかってもらえない」気持ちを強めるだけで。
 10日夜現在、togetterのまとめは36000人以上が読んでいる。もともと彼のtwitterのフォロワーは330000人以上いる。「障害児と親」について個人の発信で書かれたものがこれほど多くの人の目に触れることはめったにない。きっと読者層も広いだろう。だからこそ、不安を感じるし、自分のできる範囲で注意喚起したかったのである。彼にしてみれば、「そんなのいちいち気にかけていたら何も言えなくなる」かもしれない。あらゆる読者を想定するのは難しい。それでも、これだけの人数に向けて書く責任は重い。
 まあいくら頑張っても焼け石に水かもしれないが。この記事も2日で5000人ぐらいの目には触れたはず。何もしないよりはマシ。