泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

つぶやき

歩数計を購入して、カバンに入れてみた。週末のガイドは1万歩超えるが、平日はそうでもない。
・テレビで「英才教育」の様子を見て、暗い気持ちに。幼児が円周率何桁覚えられようが、英語をどれだけ聴き取れようが、何の幸せを保証してくれるわけでもないのに。
・でも、ここで別の「大切なもの」を言ったところで、それもまた何らかの「能力」に還元されてしまうのだろう。それは避けがたいことであるし、否定しきれることでもない。
・きっと自分が気に食わないのは、これからの社会を構想することもなく、他人よりも優位に立ちたい(立たせたい)という欲望のもとに「教育」が授受されることだ。ああ、気持ち悪い。
・「フラッシュカード」とやらを熱心にやる幼稚園にとって、発達障害児とはいったいどのような存在なのかを聞いてみたい。
・音楽の発表会で演奏ができない子の楽器の音を出ないようにするなんて話は都市伝説かと思っていたが、こんなに身近にあった。
・明日、ものすごく短時間で教育委員会からたくさんの話を聞かねばならないのだが、やはり就学指導・相談の流れに不透明なことが多すぎる。
保育所幼稚園から教育委員会に渡される「個人票」には、何らかの法令上の規定があるのだろうか。もしかしたら無いのかもしれない。そうでなければ、なぜこんなにこそこそとやりとりされる。園への参観もそう。保護者の知らないところで終わっている。
・おかげで就学までの流れについて、保護者への説明が難しくてしょうがない。「ケースバイケース」なんて説明にどんな意味があろうか。
・何かの本に「就学に際しては保育所・幼稚園が中心となり、保護者を含むケース会議をして、決めていくのがよい」と書かれていたが、たとえ理想としても、あまりに現実から遠い。
・幼稚園によっては、はじめから発達障害お断り。入園してから障害に気づいたとしても、「辞めてください」とは言えない。結果的にどんな扱いになるか。
・私立だからどんな方針とろうが自由ということなら、公立の幼稚園が自治体内にひとつもない地域の子どもの尊厳はいずこに。