泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「障害」理解か「その子」理解か

イラスト版自閉症のともだちを理解する本―いっしょに学ぶなかよし応援団

イラスト版自閉症のともだちを理解する本―いっしょに学ぶなかよし応援団

 学生スタッフ向けに購入。軽度の子がイメージされているイラストが多いけれど、重度の子も含めて自閉症の特徴をまず理解するには、このぐらいの事例が並んだほうがむしろわかりやすいのかも。事務所に置いておこう。
 知的障害が軽度の子の姿から重度の子に必要な支援が見えてきたりする、というのは、日々の実感としてもあること。それはそれで複雑なものやわかりにくいものを捨象して、障害をシンプルに捉えたい欲望と背中合わせであるのだろう。でもモデル的な理解が全く前提にないままで支援するというのもつらい話。
 ところで、「ともだちを理解する」という文脈でこうした本が実際に使われているのだとしたら、そのような事例を具体的に知りたい。「みんないっしょに」「統合」を推進する動きが共生社会の実現を、単純な「自然な関わりの中での理解」に賭けようとするならば、自分は明るい見通しを描けない。その限界点の見極めはきっと必要。私とあなたの何が同じで、何が違うと前提してよいのか、を判断する力は、どこまで自然に醸成できるか。子どもにそれはどこまで可能か。
 「○○くんはこういう特徴のある子」という説明は、何らかのカテゴリーを用いないままで、どのぐらい子ども間の納得に寄与するのか。見方を変えれば「障害だから」という説明で納得できる子どもはいるのかどうか。