泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

自分の発達

 ひさしぶりに実家に電話。
 母から、自分の幼児期のことなど聞いてみる。ほとんど聞いたことがなかった。自分は幼児期の記憶がとても薄い。近所の友だちの名前とかもほとんど忘れている。母親からすると「そんなに覚えてないのか」という感じのようで、「少し大きくなったときに、もっと昔の話をしたらよかった」とも言う。
 何せ自閉症スペクトラム度数34点なので、幼少期にいろいろと特徴が出ており、誰かしらから指摘されていたり、親を手こずらせていたに違いないと思っていたのだが、どれだけ聞いても、発達上の偏りも歪みも感じられない(特に社会性やコミュニケーションに関して)。いたって順調な子である。友だちと遊ぶのが大好きで、転校生が来ると最初に友だちになろうとする子だったらしい。健診等でも何ら問題なかったそうだ(3歳児健診とか当時はなかったんじゃないかって言っていたけど)。叱られても、そんなに引きずることなく、比較的立ち直りも早い子だったと。ときに「手のかからない子」は心配せねばならないのだが、そういう意味での「手のかからない子」でもない。病弱で、食の細い子ではあったけれど、それも次第に改善された。
 小学校に入ってからも友だちと遊んでばかり。勉強はできて、学校の先生からの評価もよい。親の目から見て、わが子が苦しみはじめたのは中2あたりからのようだ。それは自分でも大変な時期だったと思うのだが、自身の発達がどうというよりも、当時の言葉でいう「不良」の多いクラスに入り、そこで人間関係に大きくつまづいた記憶が強い。
 ここで先天的なものと後天的なものの線引きにどれほどの意味があるかわからないものの、自分が今のようになってしまったのは、どうやら環境によるところが大きかったのだな、という気がしてきた。それがわかったからとて、何がどうなるものでもない。でも、自分にも幸福な時代があったのだな、ということに、少しほっとする。
 「転校生と一番に仲良くなってあげようとしていたあんたにとって、今の仕事はある意味で天職だったのかもしれない」とも言われた。今の自分には涙が出る話。