子どもの遊びは儚いけれど
発達障害の子どもと公園へ行く。知的障害は境界域。彼はみんなと遊びたい。
しかしながら「君はいったい誰に向かって話しているのだ」という様子で、遊びたい気持ちをうまく伝えられないので、仲介したり、代弁したり、後押ししたりする。公園に誰がいるかは、行ってみるまでわからない。彼のことを知る子は多いが、彼の挙動に対して受け止め方はさまざまである。
今日はやっと思いが通じ、「どろけい」をするという(自分の出身地ではこんな呼び名ではなかった)。全国各地で同様の遊びがあるであろう、「警察」と「泥棒」に分かれるやつである。声をかけた子どもたちにずいぶん無理を言って遊んでもらえる感じになったので、その代償として「警察」役を命じられる。しかし、彼は追いかけるのが嫌いである。たぶん、逃げられたら追いつけないから。それで、嫌だ、となる。
ひとりで不満をぶつぶつ言いながら、そのまま公園を出ていく勢いなので、ちゃんと自分の希望を伝えるように促す。結果的に、他の男児に「警察」役をしてもらえることになった。これでようやく「泥棒」役デビュー。ところが、開始から30秒も経たぬうちに、「警察」役の子どもは他児の遊びに引っ張られて、そのままフェードアウトしていく。いつやめたのかもはっきりしない。
結局、遊びは発展せずに、どうしていいのかわからなくなった子どもは次の公園に移動する。そこにいた他児2人は、缶けりに似たようなルールの遊びを提案してくる。はじめた途端に1人が「5時だから帰る」と言いだし、2人になる。その子が2人だと缶けりは面白くないというので、自分も入る。適度に「大人の本気」を見せつつ、遊ぶ。みんな、そこそこ盛り上がる。
帰宅時間が近づき、子どもは「鬼ごっこ」をしたいと言いだす。一方で、他児は「かくれ鬼」をしたいという。その他児に「『鬼ごっこ』と『かくれ鬼』はどう違うのか?」と聞くと、その子は一生懸命に説明してくれるのだが、いくら聞いても全然わからない。これぞ小学2年生の説明能力。どうやら「かくれ鬼」がはじまったようなのだが、ヘルパーでさえわからないものが子どもにわかるはずもなく、結局、ぐだぐだの展開で遊びは終わった。それでも、いっしょに遊べた感はあるらしく、子どもはそこそこの満足顔で帰っていく。
子どもどうしの自然な遊びの中で、大事なことを学んでもらうのはとても難しい、という話。大人の勝手な期待は簡単に裏切られるが、思いがけない成果が見えたりもする。〈遊べる/遊べない〉の境界は不安定で、儚く、つかみどころがない。大人が設定したのではない遊びは、小さな賭けである。