泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

強くなれないリーダーの悩み

 「私は『リーダー』には向いておらず、むしろ『参謀』のほうが向いている。が、やむをえず『リーダー』をしている」という話を何度か耳にした。
 自分が法人を設立して以来、やってきたことと言えば、組織の大まかな方向性を示しつつ、新たな事業を立ち上げていくことだったように思う。理念や哲学を語りながら次にすべきことを考えてきたところは、参謀的と言えば、そうなのかもしれない。一方、新規事業をはじめるときは、いくら理念を語ってもダメで、実際にリーダーシップを発揮し、組織のメンバーを動かして結果を出さねばならない。
 しかし、新たな事業がすんなりとうまくいくということはない。いつでも全精力を注ぎこんで立ち向かったが、新しいことをはじめるときは、必ず壁にぶちあたった。そして、全精力を余裕なく注ぎ込むからこそ、失敗したときの失意は大きく、メンタルの弱い自分は何度もつぶれてきた。すると、有能な他職員が、後を引き継いで、立て直す。情けないが、これが何度となく繰り返されてきたパターンである。
 「組織には仕掛け人が必要だから」と言ってくれる人がいる。たしかに、自分がいなければ、この組織はずっと現状維持である。新しいことをはじめようという者はたぶん他に出てこない。それは現状維持のように見えて、出会ったニーズに応えないという意味で、実は後退まっしぐらだと思う。この点において、自分の存在意義はまだある。
 しかし、新しいことを安定した仕組みにするよりも前につぶれてしまうのは、他職員にすれば迷惑きわまりない。そんなリーダーは信頼もされるはずがない。そして、自分は自信や居場所を失う。
 精神的な「強さ」と表されるものは、いったい何のことであろうか。それは知識でも技術でもない。さまざまな経験を積めば培われるとか、年を重ねるにつれて身につくとかいうのは、ひどく無責任だ。実際、法人設立からずいぶん多様な経験を経てきたが、自分は「強く」なった気がまるでしない。むしろ疲弊して、些細なことにも気持ちを揺さぶられるようになった気がする。客観的に見れば、そこまで追い込まれる話ではないようだが、とにかく打ちひしがれる。
 きっと「強く」なるには、その前提として必要なものがあるのだ。たくさん挑戦して失敗すればいいなんて単純なものじゃない。何が前提として求められるのかはまだよくわからないが、おそらくこれは自分たちが支援している子どもたちとも重なる話でもあり、支援をする側も受ける側もときに同じ課題を共有するのである。
 もっと「鈍く」なることができれば、楽に過ごせるのかもしれないと思う。世の中には、仕掛けるばかりでその後に無関心なリーダーもいるはずだ。しかし、そんなことができるぐらいなら、はじめから苦労はしない。想像力の足らなさから失敗することが多いが、過剰な想像力から追い詰められることも多い。こんなところも、自分たちが支える子どもたちの苦しみと重なっているのだろう。
 弱いリーダーのままでも活きていけるマネジメントはあるだろうか。そんなものはないと言われても、組織をつぶすわけにも、淘汰されるわけにもいかないのだけれど。