泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

雑感

・カゼが流行っている。気温の変化が激しかったこともあるのだろう。
・支援の活用について「本当に困ったときに助けてもらえばいい」と考えていると、本当に困ったときに子どもはいきなり劇的な環境の変化にさらされることになる。支援を使っていくことは「備え」でもある。
・彼は確かにずっと不調だし、身体的にも極めて厳しい状況にあるが、決して「悪く」なっているばかりではない。しかし、家族からはただ「悪く」なっているようにしか見えていない。そのようにしか見えなくなってしまうことも、障害が社会的なものであることを示しているのだろうが、そう言ってみたところでどうにもならないケースはある。それが、これだ。「待つ」ことで、どこかには落ち着くだろう。しかし、どこに落ち着くのか。
・こちらの気を引くための行動なのか、純粋にそれをしたいがための行動なのか、わからない。どちらでもあり、どちらでもないようだ。理由がわかったほうがよい支援もある。わからなくてもできる支援もある。いずれにせよ、自分の意思は表現できたほうがよいことは確かだ。
・知的障害とか発達障害をもつ人々の力を伸ばそうとすることに違和感をおぼえたり、環境を整えたりすることに「不自然さ」を感じる人々であっても、自分の意思を表せることの価値は認めるだろう。「自己決定」ではなく。「社会関係の主体的側面」なんて表現が思い出される。
・しかし「主体的」になるために「客体化」されたトレーニングを経なければならないのだとしたら、それを自分たちはどう評価したらよいのだろう。自由になるためならば、甘んじて受けるべきなのだろうか。いくつかの成果を見た今、以前ほどは悩まなくなってきたが、まだ完全に解き放たれてはいない。
・「教育」は、こうしたジレンマを抱えているのだろうか。教えるのではなく、学ぶのだ、と転換しても、学び方は教えなければいけないだろう。
・連休の谷間に休みがとれた。布団を敷くスペースさえ無くなった部屋を掃除。気がつけば床に250冊ぐらい本が置かれていた。収納が足らない・・・。そして、次のごみ収集日まで、ゴミ袋4つといっしょに暮らさなければいけない。ジャマだ。
・休みにテレビを見て思う。こんなにテレビってつまらなかったっけ? くだらないバラエティでも昔は楽しめていたような気がするのに。予算削減でどうのこうのって言われているけれど、自分自身の変化から来ているんじゃないかと疑う。
・『マンガでわかる微分積分』を買ってしまった自分は、いまだに高校数学でつまずいたことを引きずっているのだろう。「私大文系」一本だったせいで、何か大事なことを学び損ねているのではないかと思えてしまう。
・4月から社会人となった彼は、教習所に行くのだと言う。教官はおそらく障害に気がつかないだろう。余計な先入観はいらない。ただ、必要な配慮はあるだろう。少し心配。
・採用の内定を出した。次年度から常勤職員が4人になる。経営的にはますます追い込まれるが、業務量を考えるといまの体制は限界だった。不安は尽きないが、稼ぎ方をしっかり考えていくほかない。