「治るのか」という問いを問う
少し前に話題となり、既に叩かれまくっているようだけれど。
【解答乱麻】明星大教授・高橋史朗 豊かな言葉がけ見直そう
http://sankei.jp.msn.com/life/education/100419/edc1004190041000-n1.htm
もうどうしようもなく偏った内容で、これを読んだ子どもの保護者とか親類とかのたとえ1%でも全て鵜呑みにしてしまったらなどと考えると、ただ暗い気持ちになる。
こうした主張が繰り返されてしまうことを何が可能にしているのだろうか?
ひっかかるのは「治る」ということの意味である。
「障害」と「病気」は違う、と言われる。
そして、病気は治るが、障害は治らない、と言われる。
この説明はよくわからない。治らない病気、があるのはよく知られている。
病気→障害の因果関係が言われることもある。
しかし、こうした単線的な理解は否定されてきたし、自分の関わるような知的障害・発達障害について、この図式を当てはめようとしてもうまくはいかない。一次障害→二次障害ならばともかく。
何が病気とされるか、何が障害とされるかは、ともに固定的なものではなく、文化社会的に規定される部分がある。ただ、それが全て、でもない。
恥ずかしながら、自分には「病気」と「障害」の区別がうまく説明できない。
障害をもつ人々と日常的に関わっている人にとっては、その違いが自明のことのようにされているけれども、実際のところそんなに簡単に説明できるものだろうか。
生活する中での困難さから「発達障害」が見出されたとして、それに対する早期の介入によって、困難さがほとんど感じられなくなる、というのはありうる。産経の記事中にあるようなアプローチを国内でも行うつみきの会のような団体はある。その成果は決して「障害は治らないのだ」という主張で否定されるものにはならないだろう。
ただ、その成果は万人に保証されているものではない。
週40時間やっても「わが子」にどの程度の成果があがるのかは未知数である。これは早期介入の方法が科学的にトンデモだということではなく、いくら成果が実証されていたとしても、ひとりひとりの子どもについてどう影響するのかは、はっきりさせられない。劇的に変わるかもしれないが、ほとんど変わらないかもしれない。「重度」の子も「軽度」の子もいる。
しかし「発達障害は治る」と言ってしまえば、「治る」に込められた意味はどうあれ、演繹されてしまうことは避けがたい。「うちの子も『治る』のだ」と。ここで「治療」の責任は医師やセラピスト(のみ)に帰属されるのではなく、子どもを療育に通わせる、あるいは、子どもに家庭で療育を行う保護者に向けられる。
ここで「治る」「治らない」が、保護者の問題にされるという「病気」では考えにくい事態が起きる。だから、このような言葉は使うべきではない。
早期の療育・介入・支援によって、本人の生活上の苦労を緩和・軽減することができる、と言えば、それで足りるはずである。にもかかわらず、あえて「治る」と言いたがるのは、その背後に様々な思想の存在を勘ぐられても仕方がない。