泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

障害児と不登校

 彼は、2学期に入ってすぐに不登校になった。
 1学期から伏線はいろいろとあった。
 学校は当然のごとく「来てほしい」と言う。当たり前のことだ。
 親だって「行ってほしい」と思う。当たり前のことだ。
 地域の普通校ならば、成績だとか友人関係だとかいじめだとか、いろいろ想定されるのだが、養護学校だ。本人からはっきりした理由が語られることはない。ただ「行きたくない」ことだけ訴える。
 学校は母親に思い当たるふしを説明して、改善すると言う。
 母親もなんとなーく納得しているようだ。
 しかし、自分にはもっと違うところで納得のいかない部分がある。学校の言うことが原因だとしたら説明できない部分がいくつかある。学校のもつ専門性は全体でみれば、自分なんかよりずっと高い。意見が食い違ったが、結果的に学校のほうが正しかった、という経験も多い。それでも、この彼についてはずーっと先生たちのアプローチが誤っているように思えてならない。本人からの自発的(だが、少し「問題」があるとされる)コミュニケーションに対して、先生たちが良かれと思ってやっていること(少しだけ具体的に言えば「あまり相手にしすぎずに、早めに打ち切ること」)が、どんどん本人を不安に陥れているように見える。
 さあ、どうするのか。自分には何ができるか。
 関係機関みんな集めて対応策を検討? 学校はしないだろう。基本的に学校の中のことだし。教員間での議論は活発化するかもしれないが。うちが集めることは、かなり考えにくい。学校にケンカを売るに等しい。
 教育にとっても福祉的な事業所にとってもメタ的な立場から全体の調整を図るところがあればよいが、そんなところはない。強いて可能性をあげれば、本格的に「不登校」になって生活のさまざまな場面に困難が増えてくると相談支援事業所あたりが出てくるのかもしれない。しかし、福祉資源をあれこれ使って、となったとしても、それは学校のやり方には変更をせまらない予感がする。学校の機能は基本的に「来る生徒」にどんな教育を施すかに関するものであって、「来ない生徒」とその家族の生活が「障害者福祉」に委ねられ、学校の課題と福祉の課題とが分離されてしまいそうな気もする(もちろん障害児の場合、福祉に委ねられる範囲はかなり限定的である)。
 そんな状況の中で、学校に「この対応の根拠になっているアセスメントの妥当性を問いたい」みたいな話をどこで誰にしたものか。このへんの話は学校の先生の間でも言いにくかったりするらしいし、外部としての福祉にとっては高い高いハードルである。
 結果として、信頼する教員にこっそりと問題提起して、学校内でそれとなく話をまわしてもらって意見するチャンスをうかがう、というよくわからない方法におさまっていく。不登校、っていったい誰が対応すべき課題なのだろう。最近よく聞くスクールソーシャルワーカー? もしそうならば、その人の専門性は特別支援教育から障害者福祉までかなりの範囲をカバーできるものじゃなきゃいけないだろう。そんな人材がどこにいるだろうか?