泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

翻弄

 何もかもが良い方向に向かう気がしない。政治に弄ばれる知的障害(児)者移動支援。
 しつこいようだが、この地域の子どもたちの生活も自分の命もかかっているので何度でも書かざるを得ない。業界関係者しかわからないだろうが、それでもいい。
 まずは、支援費制度で大赤字の元凶とされ、大幅な単価切り下げを狙い撃ちされた。
 多くの零細事業所が必死になって国に赴き、それを食い止めたが、自立支援法での市町村事業化は避けられず、単価も資格要件もサービス内容も地域ごとに全てばらばらに。
 各地域で自治体に向けて運動が繰り広げられ、全国悲喜こもごも。依然として児童への支給を認めていないところもあれば、逆に支援費時代以上の内容を実現しているところもある。一方で、ある種の地域格差は国事業か市町村事業かによって変わるのではないことも明らかになった。やる気のあるところはいつだってやる。やる気のないところはいつだってやらない。
 地元の他事業者がただ「もっと高い報酬を求めるべきだ」としか言わない中、介護保険事業所との違いだとか、調整の大変さとか、様々な観点からあるべき報酬単価と制度設計を訴え、地元の事業者ネットワークに制度案を持ち込んで採用されて、あちこちの自治体との交渉に使ってもらった。法人設立3年目の山場だった。ここで失敗したら、つぶれると本気で思った。移ってきて間もない福祉課長に理解してもらうのは大変だったが、担当者のバックアップもあっただろう。すべてが思うようにはならなかったが、最悪の事態は避けられた。
 うちの収益は、支援費時代より15%ぐらい落ち込んだ。それでも資格要件は撤廃させられた。その代わりに、自前で研修体系を組んだ。誰でも気軽にやっていい支援にずっと金がついてくるとは考えにくかったからだ。自分たちが必要だと思うことを、支援者に伝えることができた。
 ときには職員がマンツーマン講義をしてでもヘルパーを確保してきた。学生をはじめとした多くの支援者が、労働時間も短く大した稼ぎにもならない仕事を少しずつするのを、懸命にコーディネートした。十数年前に親たちが学生ボランティアを募って活動をはじめたこの地域で、子どもたちや家族の望む支援を続けてきた。学生を余暇的なプログラムのボランティアとして確保して、そこからヘルパーへと育てていく仕組みも形作ってきた。
 そして、民主政権。もう一度、移動支援は個別給付に戻すと。国でやるのだ、と。
障がい者政策PT中間報告 〜政権交代で実現する真の共生社会〜
http://www1.dpj.or.jp/news/files/090319PT-midrpt.pdf
 もういちど我々の手の届かないところに行こうとしている移動支援。もはや地方の一零細の声など届くこともない。特定の組織と議員と官僚の間で決まっていくことに、多くの人々の生活と命は委ねられる。
 大盤振る舞いできたとして、もし4年後にもう一度ひっくり返ったら? 本当の地獄はそこから始まるのかもしれない。どうなってもなんとかするしかないのだろうが、綱渡りにいつまで自分の心身と組織がもちこらえられるか。職員たった3人の法人の命運なんて、簡単に左右される。