泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「したい」のか「せねばならない」のか

 少し前のこと。突然の激しい雷雨にあった。
 自閉症の彼は雷が大嫌いと聞いている。
 しかし、カサが無くずぶ濡れになりながら、間近に雷が落ちても突き進む。いつも通りならば、あと30分ほどは歩いて、先にある駅から電車に乗る。そのあたりを訪れたときは、もう何年も変わることのないルートである。
 途中でカサを買ってはみたものの、それでなんとかなるようなレベルの雨ではなかった。周囲を歩く人は誰もいなくなり、みんな屋内に避難する。自分でさえもおそろしいと思うほどの雷が空気を震わせている。
 これ以上進むのは無理だ、と判断して、最寄りの駅から電車で帰ることを提案する。「自閉症」の彼はもちろん動揺した様子を見せる。自分の腕を引っ張って動かそうとする。「いっしょに行くのだ」というようなことも声に出して言う。1分か2分ほどのやりとりの末、彼のほうが折れた。最寄り駅に向かう。
 すると表情が明るくなる。「雨に濡れることを避けようとして急ぐ」ことそのものを面白がるような言葉さえ出ている。その後のスケジュールを予定どおりにこなして、キゲンよく帰っていった。帰宅後も問題はない。
 自己決定を尊重すべき、と言われる。ある種の極限状況を除けば、それが疑われることは少ない。日常の中で何かを決定するときに、自分たちはその背後にある「意思」とか「欲求」とかを見る。「〜したい」から何かが選ばれる、と考える。だから、その人の「思い」を汲み取らなければならない、とされる。
 一方で「行動」にのみ注目しようという立場がある。「思い」なんて目に見えない。ありうるのは「行動」を通じて「思い」を推察するだけだ。直接に「思い」にアクセスすることは断念しよう。それは、冷たいようで自然な態度でもある。言葉で語れない人はもちろん、語れる人の「思い」だって、我々は行動を通じて判断しているではないか。
 それでも、そこで行動を通じて推察しようとする「意思」とか「欲求」とかいうカテゴリーは、既に我々の中で前提されている。だから、なんとなく「〜したいと思って、〜しているのだ」と言える。その前提が疑わしく思えるときがある。上の話はその一例である。そもそもある場所に「行きたい」というのは、いったいどういうことなのか。「行かねばならない」と「行きたい」を我々は意味の上で区別している。しかし、それは本当に万人にとって区別できるものなのか。ここまで来ると「行動」を通じても「思い」が正しく特定できるとは、自分にはどうも思われないのである。
 もっと単純に言ってしまおう。「『こだわり』とは『したい』のか『せねばならない』のか。
 区別できないとなると、我々は支援の手がかりをひとつ失う。その可否はともかくとして、「心」の内部を意味的に区別しようとすることから、我々は逃れられないだろう。重い知的障害を伴う自閉症の人々を支援することは、ときに本人の行動の意味を誤解したままでもなんとなく続けられてしまいうるが、そもそも正解があるのかどうかも簡単には言えないように思う。
 しかし、正解がないと言ってしまえば、支援者にとって都合のいい解釈ばかりのダメな支援が横行するに決まっている。だから、無限に悩み続ける。それが苦しくもあり、面白くもある仕事なのだろう。